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ドライブから政治まで。国民の生活が第一

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今年は,かのフランソワ・ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』を読んでいた。途中までは,牛の歩みのような遅さであったが,どうしても年内に片付けたいと思い,最近は日曜をこれに費やし続けた。
まあ,古典文学というのは,大なり小なり難解…なのであるが,これもまた大変だった。昨年読んでいた『ドン・キホーテ』は,6冊あったけどそこまで読むのがつらいという感じはなかった。段々,プロットが同じことの繰り返しにはなっていたけどね(笑)
ガルガンチュアの方は,実は日本語訳が出されたのは割と新しいらしい。それに初めてチャレンジしたのが,弊学の渡辺一夫氏であった。現在は,ちくま文庫の手になるもっと読みやすい文章の訳も出ているが,それが出るまでの数十年間は,渡辺氏の岩波の翻訳しかなかったようだ。つまり,それほど日本語訳の難しい大作で,チャレンジャーが現れなかったということ。別に弊学礼賛というわけではないが,渡辺氏の文学界における功績は大きいということである。どうでもいいけど,世界史の教科書では,ルネサンス文学で上記ガルガンチュアと一緒に覚えるエラスムスの本は,『愚神礼賛』となっている。しかし,一般的には『痴愚神礼賛』という表記の方が多いようにも見える。もちろん,原題の訳の問題なので,何とでも訳せるであろうが,高校生が入試で『痴愚神礼賛』と書いたらちゃんと丸をもらえるのだろうか…。
戻ります。『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』といっても,これまた5冊構成で,第1の書,第2の書…と呼ばれている。そのうち,ガルガンチュアを表題にしているのが第1だけで,後の4冊はパンタグリュエルが表題である。もっとも,実際に(初)出版されたのは第2,第1,第3,第4の順で,第5はラブレーの没後のため,誰が作ったのか,本当のところは分からないらしい。また,第3以降は,余りパンタグリュエルは主人公ではなく,パニュルジュ(繰り返し言わせると,滑舌の練習になるw)なる人物がむしろ主人公のような感じだ。
さて,内容ですが,一応,既存の権威(特に,ルネサンス期のカトリック教会,パリ大学神学部)を風刺するという触れ込みである。世界史の教科書にも,そのように書いてある。「破天荒な諧謔の氾濫」との評価もある。http://onsen-kabumasa.cocolog-nifty.com/okirakunikki/2010/09/post-c88e.html
ということで読み進めたが…渡辺氏が,ここが風刺だと一生懸命注で摘示してくれるのだが,何が風刺なのかさっぱり分かりませんw まあ,私の教養の問題だね。
で,この風刺についても,第1,第2の書では若さあふれる明快なものであったようだが,当局から発禁処分を受けてしまったため,第3以降はもっと注意深く韜晦(とうかい)的に行ったのだそうだ。第1,2の書ですら風刺だと分からぬのだが…汗 まあ,私の理解力はおいておくとして,それほど遠まわしにしていってもなお,あえなく発禁処分となってしまった。そのくらい,言論出版の自由がなかった時代ということだね。我が国の戦前と同じである。
本文の意味はさっぱり分からなかったが,解説で示された時代背景も含め,分かっている範囲のラブレーの生き様の紹介とともに読むと,少しは見えてくるものがあるというか。テクストも,版によって微妙に(第5の書は大幅に)原文が違うという翻訳の舞台裏なども紹介されていた。文学者というのは,こういうことを研究しているのかということの一端が分かった。
何だか,ここまでで一記事が書けそうであるが,ここからは,出版の自由に無理やり持っていっていろいろ考えたい。
2018年の日本。戦前のような検閲はなく,ごく一部の名誉毀損,わいせつ本を除いて,ほとんど出版そのものの制限はない。『嫌○流』のようなヘイト本も幾らでも出回っているし,今のところ,正面から安倍政権を批判するような出版も,禁じられてはいない。そういう出版社が,直ちに弾圧されているというわけではない。さすがに,この点は認めてよいであろう。
しかし,現代の人権侵害というやつは,より韜晦的に行われる。例えば,徴兵制。一般的には,日本国憲法下では違憲とされる。しかし,安倍内閣であれば,閣議決定1本で憲法18条の解釈を変更し,徴兵制を認めることは明らかに可能である。ただ,さすがに,そこまで露骨なやり方は,極右政治家以外は行わない。より韜晦的な方法として,経済的徴兵制をするということが考えられる。
出版の自由に関していえば,出版そのものを禁じるということは,さすがの安倍政権も直ちにはやらないであろう。しかし,自治体レベルでは,学校や公立の図書館から『はだしのゲン』を焚書にするなど,より韜晦的な形で出版の弾圧が行われている。集合住宅にビラを入れただけで処罰したり,9条の俳句を公民館だよりに掲載しない,公共の施設を市民集会に使わせないというのも,より韜晦的な言論封殺である。
権力側も,そこは学習しているというか。さすがに,戦前と全く同じやり方で分かりやすく人権侵害する例は,ほとんどない。必ず,何かしら理屈(政治的中立,集合住宅の住民の意思,子どもに与える影響など)が立つやり方で行う。これは偶然ではなく,権力側が学習した必然の結果である。今後も,気に入らない言論を封じるためには,国体の護持なんて話ではなく,必ず別の大義を考案してからやるはずである。最初に『はだしのゲン』は刺激的過ぎるから(いわば18禁として)閲覧制限しようということを発明した人には,安倍政権から感謝状が行っているかもしれない。ちなみに,なぜ政府が,フリージャーナリストを世界の紛争地域に行かせないようにするかというと,これも,特に安全保障政策の検討に当たり,多様な言論をできる限り封じるためという思惑があるという。https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20181116-00104356/
>その時の政権にとって都合の悪い事実を現場で確認するジャーナリストは、排除しておきたいのだろう。その口実としても、「危ないから行くな」というロジックは便利なものである。

これなんかは,当人の生命身体を守るという表向き親切な提案をしているから,より韜晦的であるといえるだろう。
日弁連も,自由権規約委員会にいろいろコメントを出している(NGOにもそういう権限があるとか何とか)。上記のような韜晦的な人権侵害の事案も,幾つか上げているだろうし,同委員会も,ビラ投かん処罰は懸念を示したことがある。しかし,個別の事案の背後に一貫しているのは,このような韜晦的な人権侵害,しかも,間違いなく韜晦的なやり方を意識して選んでいるということである。反論を検討するに当たっては,単に各論の問題にとらわれず,そういう視点を持って臨むことが必要になっていると思われる。
当職は,ある副会長経験者から「人権エリート」の称号を授かった。学識はまだまだだが,役職的な意味でね。その「人権エリート」として考えてみた次第である。

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日テレzeroの崩壊(2)

10月,新生日テレzeroがスタートしたが,これが余りにひどいということは,拙ブログとリテラで述べてきた。
リテラは僅か2日で切って捨てていたが,私も10日程度で確定的に駄目だと思った。
その続報である。
https://lite-ra.com/2018/10/post-4339.html
相変わらず,政治に関しては,徹底的とは言わないにしても,できるだけ報道自体しないようにするという本質は変わっていない。その挙句が,杉田議員の問題発言について,正しく報道しなかったという。政権忖度の意図があったかどうかはともかくとしても,普通に,間違えたらどこかからクレームが来るとか,そういう身構えはできなかったのだろうか。ただのトークショーのつもりでいるから,考えが甘くなっていたのではないか。
リテラの言うとおり,かみまくりだとか,進行がぐだぐだだとか,そんなことはどうでもよい。ニュースの選択の仕方,報道の内容の問題である。

この1か月,あちこちから番組内容の批判(忖度とまで言うかはともかく)が出てきたわけだが,根本的に反省するという気はなさそうである。なぜ番組内容のせいだと分からないのだろうか。それすら理解できる能力がないのか,政権からの圧力があるのか。
前回も述べたとおり,幾ら頑張って安倍政権を擁護しても効果が薄いため,それならいっそのこと一切報道しないのが一番効果的だ…と政権が考えている可能性がある。有働については,4億円もの破格の,一生掛けて一生懸命働いても到達できない人も多い額で招かれたらしい。政権忖度ビジネスとでもいうのか。官房機密費からギャラが出るわけではないだろうが,忖度すればもうかる大マスコミの構造は変わらない。
政権からすれば,新生zeroは,賛否が同じ尺かどうかなどいちいち目を光らせるまでもなく,報道しない自由を極限まで行使して,そもそも政治について報じないことで自分たちを守ってくれる最もすばらしい報道番組であるといえる。有働も,さながら佐川と同様に,政権を守ることで論功行賞がある。それが4億円のギャラなのであろう。

ところで,中旬までは,忖度とまで言うかはともかく番組内容に対する批判的な記事が相次いだ。しかし,先週くらいから,「キャスターが変わったばかりだから,もう少し長い目で見ましょう。」とか,単に有働頑張れ式の擁護記事が続々と現れるようになった。
何があっても有働大好き,いかなる番組であっても有働なら見る,というコアなファンが,その旨を明示して擁護するのであれば,それは人それぞれの好みであるから別にいいんだけど。マスコミ関係者やら評論家を自称する人間が,さも中立のように有働を擁護するのは分からない。正々堂々と,「有働由美子のトークショー」という番組名にして,報道番組ではないということを示した上であれば,どのような評価でもよい。しかし,報道番組として見たとき,何をどう認識し,評価すれば擁護できるのか,およそ理解不能である。
こちらは,官房機密費で,新生zeroを擁護する記事をあらゆるマスコミ関係者に書かせているのか。

有働由美子は,ジャーナリストなのか。これについては,否と言いたいところではある。しかし,ジャーナリストの要件が何なのかについて共通認識がないため,即断はできない。まずジャーナリストの本質とは何かを探求しなければならない。権力の監視はかなり大きな要素だが,海外の危険地帯を取材するのは,必ずしも権力の監視といえるか。大抵は,そういう国の政府なり軍という権力の監視に結び付くとは思うけど。
また,危険地帯に行って体を張ってくるのがジャーナリストの本質かというと,そうとまではいえない(上記リテラ3頁参照)。
私も,有働にジャーナリストとしての資質があるとは思えないが,それを正式に打ち出すには,ジャーナリストの本質は何かという,「法の根底にあるものは何か」と同じような根源的な論証をかませる必要がある。

いずれにせよ,zero復活の処方箋は単純明快であって,それに従わない限り,視聴率の回復は考え難い。新生zeroが潰れるのと,国民の政治的無関心が極限に達する(この番組を受け入れる)のとどちらが早いだろうか。

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日テレzeroの崩壊

10月に入り,有働由美子を擁する新生日テレzeroがスタートした。
もともと,サブキャスターがセクハラ騒動で降板するというごたごたはあった。しかし,当のサブキャスターだけ除外すれば,有働自身に非はないわけだし,そこまで気にしないでいた。
しかし,1日,早速見てみたら,ノーベル賞受賞で山中教授にずるずるインタビューし,それだけで30分。その後もそこまで重要か分からんニュースを垂れ流し,沖縄県知事選の結果は一切無視で終わった。
内閣改造についても,大マスコミですらトンデモ人事だと報告していた中,有働は「でも,適材適所は適材適所なんですよね?」と聞いていた。しかし,これについても,初日の私は,むしろ皮肉で言っているのかもしれないと善意解釈していた。
しかし,そうでもなさそうである。
https://lite-ra.com/2018/10/post-4292.html

それから1週間,改めて見てみたが,今日も政治の話は1秒たりともなし。果ては築地市場の様子の中継で,マグロ第1号は誰かなど,およそどうでもよい問い掛け。もちろん,移転に関する何か争点について言及することもなかった。で,後はゼロカルチャーとスポーツと天気で終わりです。
リテラの評価は急進的過ぎかとも思ったが,私も評価は確定した。

日テレzeroの劣化はすさまじい。政権批判はもちろん,そもそも政治のニュースを取り上げること自体が一切なし。徹底的に日本の政治状況を隠すため,視聴者から政治を遠ざけるために現れた日本史上最低のニュース番組だ。あの安倍チャンネル・NHKよりひどい有様だ。
賛否を徹底して同じ尺にしているものの,岩田明子がたっぷり出てくるものの,少なくともニュースウォッチ9では政治トピックを報道している。意外にも沖縄の話題も報道しているしね。岩田明子は露骨な安倍応援団だとも言われるが,裏を返せば,余りに無理筋過ぎて逆効果になっているという説もある(https://ameblo.jp/sayamayotarou/entry-12383888640.html)。こういうとなんだが,報道しているだけましである。
zeroの場合,そのような御用記者すら入れず,そもそも報道自体をしないわけである。これはニュース番組としてはおよそあり得ない。しかし,もしかしたら,沖縄県知事選挙の結果等を踏まえ,これまでの岩田(田崎史郎でもよい。)のエクストリーム擁護が逆効果であることに気付き,それならむしろ徹底的に政治の話題を報じないことこそが一番効果的と考え,その最先端として新生zeroが設けられたのかもしれない。そうであれば,新生zeroについてはむしろ合点が行く。
まあ,政権擁護の報道より,一切報道しない方が効果的な政権って一体(汗)

百歩譲って,単なる情報番組として考えたとしても,内容は薄っぺらく,ヤフーニュース以下ではないだろうか。ワイドショーの方がまだ(これも安倍擁護派に完全占拠されているものの)情報量はあるといえる。通常のニュース番組の風上にも置けない状態で,そこらのワイドショーにも及ばない。芸人がいない分,バラエティとしても中途半端である。およそ存在価値のない番組に成り下がった。
新生zeroは視聴者と会話するというが,視聴者も怒らないんだろうかね。まあ,安倍政権支持派又は純然たる政治無関心な視聴者しか見ていないのかもしれないが,視聴率は上がっているとか。こんなレベルでも視聴率があるのは,有働由美子の名前によるのであろうが,同人の本質は,飽くまで芸能とスポーツだけのアナウンサーだったようである。必死に安倍擁護の理屈をひねり出すためかいがいしく努力している岩田明子の方が,まだましに見える。そこは,腐っても東大というべきであろうか。別に,学部の先輩だから忖度しているわけではないんだけどね。有働の場合,そういう頭すら使わず,感情的に政権擁護を示唆する表現が出てくる分余計に悪らつである。
そう考えると,批判のパンチは十分ではないにしても,村尾キャスターも桜井翔も頑張っていたのだなぁ。

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9月1日,関東大震災から95年後の防災の日が終わった。Nスペによれば,地震の前に,スロースリップという,2つのプレートの密着している層の周辺で起きる地盤のずれが,大地震の前兆になっているとか。そして,南海トラフではそのスロースリップが頻発しているから,南海トラフ大地震も秒読みらしい。一方で,大気の電離層の電子数の変化が,多くの大地震の1時間〜20分前頃に観測されているらしい。何だか,昔の特命リサーチ200Xみたいだw
それにしても,どれほどの富に飽かせて豪邸を建てても,津波で流されてしまえば一緒なのかもしれない。富は問題とならぬ。
9月2日,本日は,戦艦ミズーリ号で降伏文書に調印。レトロゲーム,提督の決断でも,運の高い戦艦だったね。それから73年,我が国は,再び軍国主義に向かってまっしぐらである。経済的徴兵制はともかく,まだ公式な徴兵はない。しかし,東京オリンピックを前に,学徒動員と金属供出が進められている。かつての徴兵は,極めて粗末ながら被徴兵者の衣食住を保障した。しかし,東京オリンピックのボランティアは,衣装はともかく,食と住は一切保障しない(弁当くらいは出るのか?)。その意味では,徴兵よりひどい扱いかもしれない。

さて,現在,テレ朝で,ヒモメンというドラマがある。ヒモをただの嘲笑の対象とせず,様々な角度から脚色してストーリーにしたものだが,そのコンセプトは,「働かないという,働き方改革。」大変極限的な風刺というか何というかw
昨晩の回で,そのヒモメンの,女をひき付けるメカニズムが示されていた。
ライバルの医師が,何でこんなクズ男がもてて俺がもてないという,筆者とそん色ない独白をしていた。それに対する答えとして,結局,母性本能引き出しということにつながるのだが,その相手が看護師というのが極めて典型的なというか,もちろん人それぞれとは思うけど,ここはベタな設定ですね。尽くす仕事だからなぁ。弁護士だって,尽くす仕事なのだが…。
結婚において,富は問題となるか。以前,眞子様と小室氏との関係でも述べたけど。まあ,人それぞれとはいえ,こと税金が投入されるとなると,富も問題となる。絢子様の方は,あっさり結婚で,ネット世論も含め全く反対せず。大マスコミは,絢子様の相手の方(私と同期かも…)より小室氏の賛美報道が強かったが,大マスコミの価値判断は分からないね。
恋愛(女性26〜7歳まで)だと,一部のパパ活を除いて,富は問題とならぬ(笑)それがヒモメンを許す土壌ともいえる。このドラマを見るたび,エミリ・ブロンテの『富は問題とならぬ』を思い出してしまう。そして,現在放映中のでない,約10年前のハゲタカのドラマの主題歌も。
さすがに,イギリス叙情詩の原文をそのまま理解できる力も関心もないが,くだんの『富は問題とならぬ』の原文と訳。ハゲタカのDVDには付録で付いているが,調べれば適宜引用があるので,そちらを。原文は著作権も切れているだろうが,訳を丸ごと載せちゃってよいのか…全部載せて引用の要件を満たすか微妙なので,省略。どうやったら,原文からこの訳が出るのか,半分くらいは分かるが,半分くらいは構文からして理解不能(汗)。なお,ハゲタカのエンディングで歌っているのは,その詩の中の更に一部。1〜3行目と5〜8行目と思われる。
富は問題とならぬ。恋愛というのも,聞いただけで一笑に付してしまう。名誉も知ったことではない。私が祈りたいことはただ一つ(T大の応援歌ではない。)。生まれた時のままの心を保ち,自由を下さい。そういうことらしい。
人間は自由なものとして生まれたが,実際は至るところで鎖につながれていると言ったのは,ルソーだったか。ありのままの極致が,アナと雪の女王の歌だけどね。
http://blog.livedoor.jp/kajumif/archives/1004385343.html
>ちなみに私は「Love I laugh to scorn」という言葉が一番好き。カップルを見て心が揺らいだらつぶやく秘密の呪文。
この方が男性か女性か,異性がいらっしゃるかどうかは分からない。ただ,確かに,「愛が何だー!」というのを叫ばず秘密の呪文としてつぶやくのは,土日の都内の繁華街を歩く際の必須アイテムである。「God damn」(ガッデム,ちくしょう)よりはましだろう。

富が問題とならないだけならまだ分かるが,人間性まで問題とならぬというと,どうだろうか。シングルマザーが再婚後,もともとの子供を継父(下手すると,内縁の夫と称するただの同居男)とともに虐待する話。結愛ちゃん虐待死事件もそうであったし,先日のNHKドラマ「透明なゆりかご」でも取り上げられていた(今クールは,リメイク版ハゲタカ,健康で文化的な最低限度の生活と,ドラマが豊作である。)。
これについて,連れ子を虐待する男も男だが,そういう男にひかれる女も女というか。余り詳細に書くとポリティカル・コレクトネスに反するのでここまでにしておくが,理屈で断罪できない生物的な部分がある限り,この手の問題を完全に撲滅することは,どれだけ児童相談所や警察の力を強めても不可能だと思う。さすがに,全国民の家の中まで監視する,某映画の世界は嫌だしね。

結局,余りヒモメンについて考えなかったw

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例えば,金足農業を応援する余り,大阪桐蔭の打者のホームランボールを飛び道具でたたき落とすとか,フライを取ろうとしている大阪桐蔭の外野手に物を投げ付けて妨害するとか,そうなれば論外である。まあ,そこまでいけば端的に威力業務妨害という犯罪であり,応援行為のらち外ではあるが。そのような犯罪に至らない応援行為は,原則として許すのが筋である。
犯罪ではないが不当な疑いのある応援行為として,タオルやうちわを振り回しての応援というのがある。例えば,これについては,判官びいきが行き過ぎると,応援の音声のみならず視覚的な影響力もあり,相手方生徒への萎縮効果が大き過ぎるから禁止するというのはあり得ると思う。私個人の価値観ではそこまで規制しなくても…と思うが,あえて規制するならこの辺りからであろう。ちなみに,憲法改正国民投票法のテレビCM規制も,視覚に訴える影響力の高いメディアを無制限に使わせることで,国民の意思決定過程がゆがめられるということが主たる根拠となる。そのアナロジーである。
一方,声(拡声器使用を除く。)や手拍子で応援することまで規制するのは賛成できない。そこまでくると,やってよい声出し・手拍子とやっていけない声出し・手拍子が区別できないであろう(申し訳ないが,上記の各論考を読んでも,ならばどのような声出し・手拍子ならしてよいのか,その基準は全く分からなかった。勝っている側を応援すればよいのか,一定デシベル以下にせよという趣旨か,ただ単に空気を読めということか)。したがって,もはや観客は黙っていろということと同義となる。コンサートないし映画と同様,客は黙っているべきと割り切るのであればそういう理屈は成り立つし,成り立つ以上完全にそのような考えを否定することはできない。しかし,それがスポーツ観戦として自然であろうか。
結局,犯罪以外の応援行為に何か規制をするとすれば,感情的な歯止めではなく,一定の行為態様で線引きをするほかない。マナー(上記楊論考でいう「民度」)の問題だとすると,この点に関するマナーの価値観が千差万別のため合理的な線引きはできない。だからこそ問題になっているのに,また極めて抽象的・多義的な基準に丸投げするのでは,トートロジーであって何の解決にもならない。
どこを応援しようと個人の自由だが,その応援行為の自由は絶対無制約ではなく,どこかで許されざる一線を越えることがある。ここまでは,普通の人権論と同じで,私も争いはない。ただ,犯罪以外のところでどこに「度が過ぎる」という線を引くかは,様々な意見があるべきであろう。熟議の上で決するしかない(その際,高校野球の性質に配慮して,プロ野球と異なる線引きをすることは問題ない。)。私の上記線引きが絶対正しいと思っているわけでもない。実際の判官びいきを直接体験していないくせに偉そうに言うな,という批判もあるであろう。あるいは,野球応援の場に法律のような基準論を持ち出すのはなじまないという批判もありそうである。
上記各論考の趣旨が,犯罪以外にどこかで線を引くべきという一般論を示したいだけであれば,私も必ずしも反対ではない。ただ,ならどうすればいいのかという話に答える(私のような素人でもどうすればよいか理解できるような自分なりの具体的回答を出す)のが,それこそにわか野球ファンではない専門家の役割ではないのか,という気はするけど・・・・・。
ちなみに,このように応援に関するルールをどう設定するかというのは,法的な考え方(特に立法)のトレーニングとしては良い素材だと思う。そもそも,立場や価値観が千差万別の多数人の利害関係を調整するために法(ルール)があるところ,上記のとおり,この問題も,立場や価値観が千差万別の多数人の利害調整の場面と言える。私は法教育委員会には縁がないが,同委員会の先生方,誰か教材化してくださーい。
(全員無視)

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