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日韓条約破棄なら日本資産の返還要求が可能(特別寄稿)

2019年08月29日 11:40



半島からの日本人追放がそもそも国際法違反

日韓請求権協定をめぐる不幸の始まりは、朝鮮半島の独立が日本の了解なく決められ、在韓日本人が不当に退去を命じられ、財産も没収されたことにあることを前提に論じられるべきだ。
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日本統治時代の京城府(現ソウル)南大門通り(Wikipedia)
もちろん、日本が受諾したポツダム宣言には、「日本国の主権は本州、北海道、九州および四国と我らの決定した島嶼に限定されるべきだ」とあるから、朝鮮の領有を続けられないことは仕方ないことだった。
しかし、具体的にどのように分離しどういう国にするかについては、将来において結ばれる講和条約において決定するべきものと考えるのが国際法の常識であったし、それまでは、日本の統治機構が存続すべきでもあった。
さらに、朝鮮半島が日本の領土でなくなったとしても、日本人が退去したり、財産を奪われるべき理由などなにもなかった。
しかし、連合国は日本の賠償の一環としてそういうことをさせたらしい。ただし、そのかわりに、純然たる賠償は連合国に対してしないで済んだのだから、日本にとって経済的に損だったかどうかは別なのだが、在留邦人にとっては災難だった。独立した韓国とのあいだで複雑な問題をいまだ生じさせていると言うことになる。
ここでは、終戦ののち、日韓会談が始まるまでの経緯を正確に追っていこう。

日本の賠償をめぐる考え方の変遷

このころ、アメリカから1945年11月に来日したポーレー賠償調査団は、12月に中間報告書を発表し、日本の工場設備の撤去とアジア諸国の戦後復興への転用を主張。それは、日本の主要産業部門の半分を賠償指定し、鉄鋼生産能力を1930年と同一水準の年産250万トンに抑えるというものだった。
また、ポーレーは「かつて、朝鮮の資源と人民を搾取するために用いられた日本の工場・施設の、いかなる部分を日本本土から移転するか研究すべし」と主張した。
しかし、この賠償案はマッカーサーに反対され、冷戦が進む中で実現することはなかった。
1947年1月、来日したストライク調査団は、ポーレー案の中止と純軍事施設以外の一般工業部門の撤去を大幅に緩和した新しい賠償案を立案した。そして、1948年1月以降、GHQ賠償局の指導で1億6500万円に相当する工作機械などが軍工廠から撤去され、中国・フィリピン・オランダ・イギリスに搬出された。
そして、1948年5月の実業家のジョンストンを団長、陸軍次官ドレーパーらが加わった使節団の報告書で、6億6200万円(1939年価格)の賠償額を提示し、翌年には均衡財政、終戦処理費の削減、公定価格の修正、徴税の強化、為替レートの設定、民間貿易の拡大、軍用交換レートの改定、集中排除法の緩和などを内容とするドッジ・ラインが示された。
こうして、アジア諸国の工業生産力の平準化路線から、日本の復興を通じてアジアの経済を振興しようという現実路線に転換され、同時に主要連合国は賠償請求権を放棄していった。

終戦でも帰国するつもりがなかった在韓日本人

終戦時に朝鮮には70万人余の日本人が住んでいた。彼らにとっても、朝鮮人にとっても、8月15日の玉音放送は意外なもので戸惑いをもって迎えられたが大きな混乱はなかった。
ただ、8月15日の朝に朝鮮総督府政務総監・遠藤柳作は、穏健派の独立運動家、呂運亨を招いて、朝鮮建国準備委員会を設立させた。 16日には安在鴻が京城放送局のラジオで韓国民に委員会の意志を放送し、独立準備のようにみえた。
しかし、『京城日報』 は 「かかる間題は、 当局は目本帝国の名に於て将来四国代表との間で折衝決定すべきものであり、 個々の団体の関与すべき筋合のものではない」(8月20日)、「朝鮮の独立には極めて多大の前提条件を必要とするが、なかんづく日本の停戦に関する処理が来だ解決されず、 右に関する権限を附与されたマッカーサーと日本帝国代表との間に話し合いが未だ開始されてなぃ今日に於ては、 独立政府の樹立は未だ議題たり得なぃのである」(8月21日付)、「朝鮮に於る帝国の統治権は厳として存し」、「朝鮮軍は厳としてとして健在である」とし、治安を乱すなら武力行使する(8月20日付)とした。
ただ、 8月24日の外務次官から朝鮮政務総監に充てられた指示では、「 朝鮮二関スル主権ハ、 独立間題ヲ規程スル講和条約批准ノ日迄法律上我方二存スルモ、 カカル条約締結以前二於テモ、 外国軍隊に依リ占領セラルル等ノ事由に因リ、 我方ノ主権ハ事実上休止状態に陥ルコトアルべキコト」とした。
8月11日、 北緯38度線以南は米軍が、 以北と満州はソ連軍が担当することになった。
8月26日ソ連軍が平壊に進駐し、米軍は9月8日に仁川上陸。 9月9日朝鮮総督府で日米間の降伏調印式が行われた。降伏交渉はハリス代将と速藤政務総監の間で行われ、朝鮮総督府で行われた降伏調印式には米国からは在朝鮮米国軍司令官ハツヂ中将、 キンケード海軍大将、 日本からは阿部総督、上月朝鮮軍司令官らが著名し、日の丸が降ろされ、星条旗が上がった。
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釜山日本人世話人会の事務所(国立平和祈念展示資料館HP)
このころ在留日本人は、内地に帰りたいという人もいたが、主流は残留だった。京城日本人世話会の伊藤事務局次長は呆然自失、不安と悔悟に暮れるよりも、我らは朝鮮語を習つて、新朝鮮に新たなる協力をなすぺきである」と述べ、朝鮮語講習会が組織され盛況だった。なかには、独立を見越して、帰化したいという者もいた。
こうした世話人会は、引揚者の荷物預託事務、不動産売買事務、 日本人財産管理などの体制を整備するとともに、朝鮮の独立後には、日本人居留地を建設しようとしていたらしい。

予想外の退去命令と財産没収

しかし、9月14日にトルーマン大統領が 「朝鮮滞在の日本人は放逐する」とラジオで方針を明らかにし、10月13日からは、単独帰還軍人の引揚げが開始され、軍人復員者、一般民の引揚げが米軍の指揮の下で行われることになった。
最終的には、12月の法令33号により全面的な日本人撤退が強制されることになった。
9月25日の法令第2号 「敵産二関スル件」では、 8月9日以後財産処分禁止と現状維持義務が命じられ、 1o月の連合国総司令官令では、引き揚げる際の持ち出し財産と荷物の制限が決められた。
民間人は一人当り千円に限り港で交換でき、 金と銀、 有価証券、 金融上の書類、銃、カメラ、宝石、美術品、收集切手などの持ち出しが禁止され、携行荷物も自分で持ち運べるだけに限定された。
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船に乗る引揚者(国立平和祈念展示資料館HP)
しかし、米軍施政下の地域では、それほど大きな混乱はなく、内地人と朝鮮人のあいだで別れを惜しむ光景も見られた。一方、北ではソ連軍が日本人にも朝鮮人にもひどいことをしたことがよく知られた通りだ。
当初は5年の信託統治ののちに政府が組織されるはずだったが、米ソ共同委員会はl947年9月に決裂、米軍占領地域では国連臨時朝鮮委員会の監視下で1948 年5月10日単独の総選挙が実施され、7月に国会で憲法が制定され、 8月15日に韓国政府が樹立された。 他方、ソ連軍占領下の38度線以北では、最高人民会議の選挙を経て、9 月9日に北朝鮮政府が樹立された。

日本政府の反撃

こうした朝鮮半島での米軍の独走になすすべがなかった日本政府だが、1907年にハーグで調印された「陸戦の法規慣例に関する条約」の第46条に「私有財確はこれを没収することはできない」とあるのを根拠に抗議し、返還を要求する。
しかし、韓国政府成立後の1948年9月に、「米韓財政及び財産に関する協定」の第5条「大韓民国政府は、在朝鮮米軍政庁法令第33条により帰属した前日本人の公有または私有財産に対し、在朝鮮米軍政庁がすでに行なった処分を承認かつ批准する。本協定第1条および第9条により、米国政府が取得または使用する財産に関する保留のものを除き、 現在までに払い下げられない帰属財産(中略)を次のとおり大韓民国政府に委讓する」とされたことによって韓国政府に委譲されてしまった。
日本政府部内では、講和条約交渉に臨む準備と言うこともあり、理論武装を進めた。外務省に設置された「平和条約問題研究幹事会」は1949年12月に。「割譲地に関する経済財政的事項の処理に関する陳述」をまとめた。
論点は、①後進地域だった朝鮮の近代化は日本の貢献のお陰であることは広く国際的にも認められてきたし、そもそも、「持ち出し」であった。②日本人の私有財産の没収は国際慣例上、異例である。③日韓併合は国際法と慣例において普通の方法で取得されたもので世界各国に認められていたといったものだった。
また、大蔵省の在外財産調査会は、京城帝国大学の教授だった鈴木武雄らに委嘱して、経済発展、教育の普及、財政資金の投入などを引き合いに出して、カイロ宣言が使った「奴隷状態」という言葉に厳しく反論した。また、終戦の時点での日本財産は47億ドルだったとして、将来の交渉に備えた。

サンフランシスコ講和会議

1951年に、サンフランシスコ講和会議が開かれた。このときに、韓国の李承晩政権は、亡命政府の存在を理由に戦勝国として参加しようとした。米国は戦勝国としてかどうかはともかく、参加には肯定的だったが、英国と日本が猛反対した。つまり、日本の一部であった韓国は、日本と戦ったわけでないというわけであり、その言い分が通った。
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サンフランシスコ平和条約に調印する吉田首相(Wikipedia)
まず、領土については、以下のように書かれた。韓国は竹島についても書いて欲しかったのだが、認められなかった。
第二条 (a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
ついで、在外資産について以下のように書かれた。
第四条 (a)この条の(b)の規定を留保して、日本国及びその国民の財産で第二条に掲げる地域にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で現にこれらの地域の施政を行つている当局及びそこの住民(法人を含む。)に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。第二条に掲げる地域にある連合国又はその国民の財産は、まだ返還されていない限り、施政を行つている当局が現状で返還しなければならない。(国民という語は、この条約で用いるときはいつでも、法人を含む。)
(b)日本国は、第二条及び第三条に掲げる地域のいずれかにある合衆国軍政府により、又はその指令に従つて行われた日本国及びその国民の財産の処理の効力を承認する。
最初は、(b)はなかったので、日本の韓国内の資産については、「日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする」。つまり、日本と韓国との話し合いで決めろと言うことであった。
そこで、韓国から要望があって、(b)が挿入され、これによって、米軍による日本資産の接収が有効になった。
これについて、国会で社会党の曾根益氏の質問に外務省の西村熊雄局長は、「第四条につきましては日韓で話し合いをする場合に、日本にとっては、なんと申しましょうか、話し合いの範囲とか、話し合いの効果というものが大いに制約されることになる条項でございまして、面白くないと存じております」と答弁している。
つまり、全面的に日本資産を放棄させられたとはいえないが、主張に制約が出るだろうということだ。
ただし、サンフランシスコ講和条約は賠償については、日本にそこそこ寛大なもので、以下のようにされていた。
第十四条 (a)日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害又は苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される。
第1次世界大戦のベルサイユ講和条約でのドイツのように、支払い能力を無視した賠償は否定されたわけで、第四条(b)は不満だったが、全体としては、まずまずだったわけである。

日韓会談における日本の最初の主張

1951年の条約締結を受けて、日韓の予備会談が始まったが、それに先だって、池田勇人大蔵大臣は、国会で、①韓国はサンフランシスコ講和条約の調印国でないので賠償はしない。②日本資産の処分は第四条によって認めたが、日本人の財産については、今後、韓国と話し合うとした。
つまり、とりあえず、米国による接収と韓国政府への移管は有効だが、それに補償する権利は放棄しないと言うことだ。そして、日韓第1次会談は1952年2月に開始された。日本側の代表は松本俊一外務省顧問(元事務次官)だった。
このときに、「インドは独立したときに、インド国内にあったイギリス人の財産を認めた」「敵の財産の処分を行ったときに、その財産に対する元の所有権は消滅しない。たとえば、売却代金に対しては日本側の所有者が請求権をもっている」という方針だった。
これに対して韓国側は、「日本が真に誠意を示そうとするなら(韓国に対する)請求権は撤回しろ」と主張した。
それに対して、日本側はとりあえず、そうした問題は棚上げにして、合意できる問題から合意したらどうかと提案したが、韓国側が拒否したので、日本側は会談打ち切りを提案。韓国側も日本が請求権を撤回しない限り話し合いを続ける意味がないとしたので、日本は無期延期を提案し、韓国側もこれに合意するしかなかった。
これが、日韓会談における日本側の日本資産請求権についての出発点である。そして、これが話を通じて妥協が行われ、1965年の日韓請求権協定に結実しているのだから、もし、韓国側が日韓基本条約や請求権協定を否定するなら、日本側もこの1952年の主張に戻るしかないということになってしまう。
なお、こののち、サンフランシスコ講和条約第四条(b)の解釈について、1957年に米国政府が「解釈」を出している。
その内容については、また、機会を改めて紹介するが、「日本国は、これらの資産またはこれらの資産に関する利益に対する有効な請求権を主張することはできない。もっとも、日本国が平和条約第四条(b)において効力を承認したこれらの資産の処理は、合衆国の見解によれば、平和条約第四条(a)に定められている取極を考慮するに当たって関連があるものである」というものであった。
つまり、直接に返還を要求したり、その代金をよこせということはできないが、最終的な請求権交渉にあたって、それが韓国政府に与えられたことを考慮することは可能だということである。
そして、これを日韓両国は受け入れた。それが何を意味をするかは微妙である。それに拘束はされるのか、交渉を進めるために受け入れる判断をしたので、交渉の結果である条約を韓国が否定するなら日本はこれも拘束されないのか、そもそも、サンフランシスコ講和条約に基づいた話し合いの結果において結ばれた条約を否定するなら、日本は何も拘束されないのか、なかなか難しいところだ。
いずれにせよ、いったん結んだ条約を実質的に否定して、裁判所の決めたことだから知らないという大統領が登場するなどというのは想定外なのである。

(参考文献)
日韓条約と国内法の解説 附 日韓条約関係資料』(編集 外務省外務事務官 谷田正躬 法務省入国管理局参事官 辰巳信夫 農林省農林事務官 武智敏夫 時の法令別冊 大蔵省印刷局発行)
検証 日韓会談』(高崎宗司 岩波新書)
朝鮮における終戦と引揚げ』(李炯戞…杭蠍立大学国際社会学部研究紀要 第2号 7-16 2017年12月)

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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