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外国人参政権について、賛否両論激しく争っている。民主党内にも慎重論を発信している議員も少なくない。この両論において、慎重論あるいは反対論を展開する人々の共通の論旨は、わが国独自の文化が損なわれるのではないかと言う一点と、諸外国に内政干渉の口実を与える事で、国家を乗っ取られると言う危惧である。
まず、わが国独特の歴史的な文化が損なわれると言う主張だが、現実に、わが国独自の文化が、それほど重要に考えられた時代は、明治以降ほとんどないと言うべきで、明治初期の脱亜入欧による西欧化に始まり、戦後も欧米に追いつけ追い越せと言う成長主義によって、基本的なわが国独自の歴史的な文化は大きく損なわれているのが現実である。 例えば、保守本流を歌い上げる、石原都知事を初めとする「立ち上がれ日本」の面々やあるいは過激な右翼を標榜する団体にも見られるが、特攻服や背広を愛用し、和服を着るのはセレモニーのときだけと言うのが一般化している。もし歴史的な文化を保守すると言うのであれば、普段から和服を着用しているべきだし、思想だけの歴史的文化の保守であれば、現状を受け入れていると言うことに他ならない。つまり都合のよいところだけ、文化を語り、利便性においては、西欧諸国の文化を受け入れている現状で、何をもって、歴史的文化が損なわれるのか、矛盾していて、理解できない。 また、外国人が地方自治あるいは国政に関与することでそれらの異邦人の本国からの意向がわが国の政策に微妙に反映して、内政干渉を招く恐れを否定できないと言う論拠にも大きな齟齬と瑕疵が存在する。 わが国の法人による有権者数は、八千万人以上であり、異邦人が占める割合は、5%に満たない。国際社会と呼ばれて短くない歳月が流れているのだが、わが国における異邦人の数は、格段と増えている分けではない。先進諸国と比較しても、異常に少ないと言わねばならない。この割合が急激に増加する可能性は殆どないと言える。それは、わが国の閉鎖的な入国管理法によって異邦人の定住が難しいと側面があるからだ。 ある悪意ある外国が、わが国乗っ取りを画策して、多くの移民を送り込むと言う事が起こる可能性は、殆ど皆無であると言う意味である。ごく一部の地域の地方自治を、乗っ取るとしても、数年で完了できるはずもない。またそれが可能であったとしても、地方自治の上部組織である、市や県がそれに歯止めをかける時間は充分に取れる。つまり、現実問題として、この危惧は、危機感の粉飾を煽る為の一種のアジテーとでしかない。 定住外国人への参政権付与は、逆に大きな文化的な発展をもたらす可能性がある。故事から述べてみる。 羅漢中による「三国志演義」では、暗愚なリーダーとして描かれている。呉の孫権だが、晋の正史による陳寿の「三国史」では、まったく違った評価がなされている。 三国による争いの中、魏呉蜀による駆け引きは、物語として大変に面白い、わが国でも、このファンは少なからずいる。この中で蜀の劉備を中心に諸葛良孔明との友情など、わが国のファンを引き付けているのだが、これは滅びの美学と言えるもので、歴史的に見れば、蜀は滅んだ国家の象徴である。赤壁の戦いなどに見る、呉の孫権は、優柔不断であり暗愚な君主として描かれているが、現実には魏の侵攻を許さず、滅んでいない。確かに属国化したのだが、呉の太守として命を全うしている。 超大国「魏」に対して呉の孫権はどうやって戦ったのか、それは内政の充実を図って、国力を温存したからに他ならない。この内政の充実をもたらしたのが、漢民族一辺倒であった「魏」「蜀」とは違って、諸外国から優秀な異邦人を政治の中心に使ったからと言われている。遠くは韃靼やモンゴルなどからも招聘している。つまり、民族意識に拘ることなく優秀な人材を広く求めたと言う事である。 わが国の現在を見ると、当時とよく似ていることに気がつく、それは、米国と言う超大国と、その跡目を狙う中国やロシア、連合して事に当たろうとしている欧州などに囲まれているのがわが国である。民族意識に凝り固まると、徐々に国際的な視線がかけて行き、結果、保守の台頭を許してしまい排他性が芽生える。こうなると、国民目線は内向きになり、エゴイズムが生まれる。こうなると国際的な発展は、大きく阻害される。 戦後の米国がどうして世界に冠たる経済力を身につけ、または技術力を培ったのか、その最大の理由は、広く国際的に国のドアを開けていたからである。無論、時代的な背景も否定しないが、この開放政策が、社会主義国との競争に勝ち抜く最大の原因であると思っている。 冷戦が終わり、世の中は、戦争を外交政策の一つとしてきた、二十世紀の外交のあり方を否定する時代に入った。しかし、国家の体制は、まだ二十世紀の制度を引き摺っている事が、真のグローバリゼーションを妨げている。欧州のEUも広がれば広がるほど、その対極にある保守主義もまた芽を出してくるもので、その軋轢の中で苦しんでいるのが外から見ていると冷静に理解できる。 この国際化に目を背けているのが英国で、この為に、国際競争力は著しく阻害されているのだが、その負の部分を、国民はプライドと言う名の下に閉鎖性を容認している。このやせ我慢がいつまで続くか見ものである。これは、これで一つの答えでもあるが、かつて大英帝国を作り上げ、現在も諸外国に手広い権益を有する英国だからこそ、この見栄が通用していると言っても過言であるまい。 しかし、わが国を取り巻く状況は、これほど甘いものではない。政治も同様で、内外ともに苦しい状況下であることは、誰でも理解しているはずである。この閉塞感を打破するには、根本的に排他性をもった政治機構などの国際化が一番である。定住異邦人に参政権を認めなければ、諸外国の優秀な人材が、わが国を真から信用して、わが国のために汗を流してくれるのか、わが国の政治に関与できるからこそ、その政治を信用することができるのであって、政治の部分だけ、日本人だけと言う閉鎖性を続ける限り、その信用は、ただ報酬に掛かってくる。その与えるべき報酬が、中国などの第三勢力と言われる途上国より低くなれば、当然、優秀な人材は、そちらに流れていくことになる。報酬以上の信用を得る為には、国を大きく開いて、彼らがわが国政府の政治を信用することが可能となった場合だけである。 明治維新の時、坂本竜馬は、それまでの民の意識である。「おらが国」つまり藩であり、生まれ育った地域と言う狭い枠組みの郷土を、日本全体に広げた、「日本人」と言うカテゴリーを作り上げた結果が、明治維新であり、この意識なしには明治維新はなかったはずである。 この革命は、その後に歴史を見れば理解できるように、【日本人】と言う新しい意識を生み、そして「日本」と言う国を生んだ。現在のわが国の状況は、この明治維新にもまして大きな変革期にあり、「日本」と言う狭いカテゴリーの中だけで発展は見込めない。経済界や文化などは、既に国境が無くなっているのが現実で、政治より遥かに国際化している。 しかし、政治だけは、この「日本」と言う枠組みの中から出られずに、排他性を残したままである。この排他性が、わが国の国際化における政治の開放を妨げており、小国が超大国と対峙する時、世界の優秀な人材を広く求めると言う意味においても必要不可欠な政策の一つになると考えている。 諸外国と比較して、他国も政治は排他性があり、わが国だけ解放することは、危険性が高いという意見もままあるが、世界に先んじて、真の国際化をする事がわが国の立場を世界で高めることになると言うこともなお、考えねばならない。 それこそわが国の独自性を世界に表明する事になろう、この勇気が、新しい国家と言う考え方を作り上げることになり、それが国際的な信用を得られる唯一の方法であるかも知れない。 この様な理由から、小生は、「外国人参政権」について、大いに賛成であると同時に、地方選挙における選挙権だけにとどまらず、被選挙権、あるいは国政への参政権をも徐々に認めていく事が望まれると思っている。 視野を広げることである。そして、真の国際人として、わが国の立場にとどまらず、世界のあらゆる国のあり方を理解する必要が、わが国に残された唯一の道であると思っている。
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外国人参政権
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[[attached(5,center)]] [[attached(2,right)]][[attached(3,left)]] [[attached(1,right)]][[attached(4,left)]] ↑選挙ポスターの名前に心当たりはありませんか? 現厚生大臣の祖父で1930年当時、九州の若松市から出馬した時の選挙ポスターです。 よく見ると何か不思議な事に気がつかれませんか? 左に当時の朝鮮語(ハングル)で、 マスソエ(マスゾエ×)と日本読みする様に書かれてまます。 当時の選挙を管轄していた内務省が朝鮮人向けに投票に神経を使っていた様子が伺えます。 1930年当時、台湾、朝鮮人で内地(日本国内)に在住する成人男子で @3円以上の税金を納付してる者((極々少数で朝鮮人全体の約4%)に 対して国政選挙権が認められていた歴史的な事実です。 もう1枚の写真で黒く塗りつぶされた部分は戦後1945年10月23日閣議決定で、 議事録6、「内地在住ノ朝鮮人及び台湾人モ選挙権及被選挙権ヲ有スルモノナルコト」 とした閣議決定を隠蔽する書類です。 別に私個人としては立候補出来ない被「選挙権」に対する関心はさほどではあり
ませんが、永住外国人に地方参政権すら与えることを悪とみなしてミスリードし、先進国では5年以上の永住外国人に与えてる権利すら与えようとしない後進的な政策に対して「理屈」を持って未だに実施しようとしない政治風潮に対しては苦言を一言。
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無心様より転記転載です。(礼) |
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今までに何回か書いた、外国人地方参政権なんですが・・・
取り合えず、イデオロー的な反対には、●感情的対立は非倫理的でヤダ ●憲法的には違憲でない ●特別永住外国人は日本の政治的問題でもある ●約80万(特別永住では約40万)の人的問題であり、例えば占領・分離などは蓋然性を持たない など、反対の為の反対に必要なロジックは、少ないながらも集めた。 その結果として、今その外国人地方参政権に白黒つけるとすれば、『時期尚早』というウルトラC的な回答となる。(殺さないで下さいね) 政治的には、国権の最高機関である国会で審議を尽くすべきなんだけど、要は認めるも認めないも政治しだいといった感は否めないし、それは導入する側にどうしたって説明責任が発生する。 それを決めるのは国民であり、その議論の少なくとも推移は見守った後に意思表示するのが筋だ。 ただし、特別永住外国人については『特別』なんだし、その歴史的背景を考えれば参政権付与は認められるし賛成だったりします。 メリットなどは、将来的な民主主義を深化させるのに必要なベクトルであるし、中国など選挙権の無い国家にその意思表明の意味を東アジアの先進国として伝播させうる意味も無くは無いと思う。 もっとも、憲法の思想的背景やその希求する精神のレール上には、取るべきオプションとして外国人地方参政権は存在するのも事実だしね。 それと蓋然性でいえば、やはりいつか東アジアなりアジアの一員として、それが緩やかなのか親密なのかは別にして、日本の持つ同化能力のひとつの段階として、外国人参政権はいきなり『帰化』よりも、地方参政権が重要なつながりとなりうる楽観論も持っている。 まぁこの議論に、イデオロギーや排他主義を持ち込む意図を取り合えずは排除したいのが目的だったりします。 その上で、国民合意が緩やかなりとも形成されればそれが最上で、すくなくとも政権与党としての議論をした上で、賛意を表したいのが理想ですね。 その場合、必ず出るであろう暴論を潰すのも日本の政治参加の必須なリテラシーなんだと思うし、それが日本人なら可能だという願いがその本音だったりします。
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外国人参政権の【違憲】or【合憲】論議だが・・・
前提として、読売さんやエネルギッシュなウヨさん達が、事この『外国人参政権』に関して護憲精神を前面に出すとは、本当に面白い現象ですよね。 自衛隊の海外派兵や、そもそも9条の陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めないとする憲法に、最も『違憲』な事を支持しているのにさぁ つまり、憲法などは『解釈しだい』だとするのは、それこそ日本の伝統であり『保守』されるべきモノという矛盾を完全に自己証明して下さっていると思うんです。 読売・産経・ウヨさんがたの言う、違憲は許さん!となると、四角四面な憲法解釈で自衛隊も違憲だし、そもそも海外派兵なども『違憲』だとなっているから、武装解除した上で、海外派兵させた元首相も【小沢の如く当然に逮捕】されなきゃいけない・・・憲法的にはね。 日本政府の方針が、護憲で四角四面な運用をせよって言ってるそばから・・・・ 日本政府の方針が、違憲的な自衛隊海外派兵や戦力の保持を積極的に支持しあまつさえ、インド洋給油を止めた事をこの『方達』が大批判するなど、滑稽で仕方が無い。 現実は憲法などは、時の政府の【解釈】などにより可動域があり、それをもって円滑に実社会を統治する手法が日本で取られているのは最早、疑うべきも無い現実でありその精神こそ逆に外国人反対派のいつもの拠り所となっているはずだ。 とここまでは横道なんですけど、上記の内容で自己満足に浸ってまとめようとしたのに、何を思ったか前回、憲法上や法律上の論理的説明と大見得をきっていて、しかもコメントで法律の背景まで言及されている大墓穴をほっちゃってしまった。 法律の背景は膨大な量の説明となるし、ルソーの社会契約論の最初の社会の規定から始めるなんて事態は避けたい・・いや別の機会にしたい・・するので、法律上の地方参政権を実行するのに関わる諸問題について少し論じたい。 まず、地方参政権を希求する権利だが・・その権利に少なくとも『特別永住外国人』はある程度『特別』であり、主要な生活空間が日本にありその糧も日本で得ている人がほぼ大多数な特殊な現状を考えうれば社会契約論でもあるように(無理やりですか?そう無理やりです!)、【自分たちに服従を強いた、自由を奪われたのと「同じ権利」によって、自由を回復する】という解釈もある程度は妥当性を持つと考える。 それは、特殊な歴史的背景を持つ『永住外国人』に、彼らに帰化するか否か?の二者択一を強制する立場にだけ固持すべきでなく、彼らの置かれた立場を認める立場にこれまで日本政府はあったわけでその上では当然、彼等固有の生存権なり権利を守らねば成らない。 例えば、在日脅威論や犯罪者集団みたいな認識を一生懸命に広めている人々が彼らの地域・生活の場に原発であったり、ごみ処理場であったり公園にするなどの決定が恣意的にあった場合・・ 地域での政治的な意思表示ができぬ彼等に、それを抗弁する手段が制限される。 これは生存権やその他、各権利などから人種・民族によって格差を許す結果となる。 つまりは読売さんなどが打ち出す、感情的極論には相対的にその対極の例さえ存在すると言いたい。 それは不毛な議論だと思うのだ。そして倫理的でもない。 又、地方参政権でその地で永住的に生活を続ける『特別永住権保持者』が、日本政府の方針と異なる影響力を発揮する根拠が分からない。 自身が永住的に住む地域に『参加する権利』を認めるのが主であり、その地域で他国の主権を主張しても、それこそなんら拘束力を持たないはずだけど・・・ それに、たとえばそういった主張をするならば、今までの日本が地域での民意なり意思表示を100%受け入れてきた『前提』なり蓋然性が必須なはずだが、普天間問題しかり成田問題しかり、そういった蓋然性が日本国民を前提にしたって無い訳であり、その論自体が杞憂だと言ってしまった方が、論理的にはすっきりするように思う。 長々と書いた上記の意見は前段である。 日本国憲法や法解釈についたって、実際に外国人参政権を【違憲とする】内容は無い。 しかし、それについては次に書く。
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