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2年前に書いたものです。
前に書いたのですが、これを愛読し始めてから、半世紀に近くなります。
最初に手にした大山定一訳、新潮文庫は今も手元にあり、奥付の日付を見ると、昭和28年初版、私が買ったのは昭和32年の7刷です。高校に入って間もなく読んでいることになります。
その後、ドイツ語原文、フランス訳、別の邦訳で読みましたが、この大山訳が一番馴染んでいます。戦前に訳されたものらしいですが、多少の誤訳もあるようで、大山訳の「マルテ」になってはいますが。
この物語性の少ない断章的な小説が私にかなりの影響を与えていることに思い至ります。
どうも告白調になってしまいます。少し引用でもしてみます。
「僕は僕のせまい部屋にすわってゐる。ブリッゲは―すでに二十八歳になった僕は、まだ誰にも知られてゐないのだ。僕はこんなところにひとりすわってゐて、まったく無名だ。しかし、その無名な極くつまらぬ人間が、何かものを考へようとして、ごたごたこんなことをひねくりまはしてゐる。五階の古ぼけた家で、巴里の灰いろの午後の空のしたで…」
「ただ人から愛せられるだけの人間の生活は、下らぬ生活といはねばならぬ。むしろ、それは危険な生活といってよいのだ。愛せられる人間は自己に打ち克って、愛する人間にかはらねばならぬ。愛する人間にだけ不動な確信と安定があるのだ。愛する人間はもはや誰の疑ひもゆるさない。すでにわれとわが身に裏切りをゆるさぬのだ。」
「愛されることは、ただ燃えつきることだ。愛することは、ながい夜にとぼされたうつくしいランプのひかりだ。愛されることは消えること。そして愛することは、ながい持続だ。」
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「僕は僕のせまい部屋にすわってゐる〜」の様な文章に弱いのです。読んでみたいと思います。初版が28年。私は1歳。
2006/7/1(土) 午前 10:02
新潮文庫に残っているかどうか、微妙です。
2006/7/1(土) 午前 10:30 [ 遠い蒼空 ]
新潮文庫で大山訳のものがまだ出ています。
当然新仮名でしょうが。
2008/7/1(火) 午後 10:23 [ 吉田ツグオミa.k.a.伊丹甚左 ]
大山訳が独特の雰囲気を持つからでしょうか。
2008/7/1(火) 午後 10:37 [ 遠い蒼空 ]
図書館から届いた「響きと怒り」は(八月の光〜はまだ届きません)かなり難解そうで不安ですが、こちらの「マルテの手記」は告白調の文章に魅かれ、入っていけそうな気がします。
2008/7/6(日) 午後 11:19 [ カオル ]
「響きと怒り」は見かけほど難解でもありません。
「マルテの手記」はいいですね。
2008/7/6(日) 午後 11:59 [ 遠い蒼空 ]
愛されることより、愛せよということですか、?
文学教養は有りませんが、真理臨床に携わる観点から見ますと
何か片手落ち、、偏見を感じます。
愛しようと、愛されようと、主観の相克でしょう。
どうもよく理解できません。
2008/7/8(火) 午後 3:52 [ サチコ ]
主観的なことですが、愛されるということは相手次第、愛する気持ちは自分自身の覚悟次第なのではないでしょうか。
2008/7/8(火) 午後 4:05 [ jyhs0114 ]
読書を禁じられていた高校時代、親に内緒で買ってきて、そっと読んだ本でした。厚手の黒い表紙はなにか宝物を手にしたような気分でした。
2008/7/8(火) 午後 4:32 [ 北山 滝 ]
禁じられれば読みたくなりますね。
読書の害毒を避けるためには禁じるしかないですが。
2008/7/8(火) 午後 5:09 [ jyhs0114 ]
私が心に残った所とそっくり同じ所が拾われています。若い日一番影響を受けた本でした。「しかし ただおまえの姿だけがいつも心に甦ってくるのだ 一度も僕はおまえに手をふれぬものだから 僕はおまえをしっかり持っているのだ」この一節も忘れられません。一度も得た事が無いものは失う時もない。ということでしょうか。
2008/7/13(日) 午前 10:06
愛することをだけ求め愛されることを求めなければ失うことはありませんね。
2008/7/13(日) 午前 11:08 [ jyhs0114 ]