|
安吾が太宰の死後、「不良少年とキリスト」を書いて追悼をしたのはよく知られている。
安吾には「志賀直哉には文学の問題はない」という短文があり、太宰の「如是我聞」の志賀攻撃を肯定している。
書き出しと結末近くを引用。
「太宰、織田が志賀直哉に憤死した、という俗説の一つ二つが現れたところで、異とするには足らない。
ニセの苦悩や誠意にはあふれているが、まことの祈りは翳だになく、見事な安定を示している志賀流というものは、一家安穏、保身を祈る通俗の世界に、これほど健全な救いをもたらすものはない。この世界にとって、まことの苦悩は、不健全であり、不道徳である。文学は、人間の苦悩によって起ったひとつのオモチャであったが、志賀流以来、健康にして苦悩なきオモチャの分野をひらいたのである。最も苦悩的、神聖敬虔な外貌によって、全然苦悩にふれないという、新発明の健全玩具であった。
この阿呆の健全さが、日本的な保守思想には正統的な健全さと目され、その正統感は、知性高き人々の目すらもくらまし、知性的にそのニセモノを見破り得ても、感性的には否定しきれないような状態をつくっている。太宰の悲劇には、そのような因子もある。」
|
織田作は、志賀直哉に「汚い文章」と言われて、頭に来て『可能性の文学』を書きました。
無頼派に肩を持つほど、両方とも読み込んでもいないですけど、志賀直哉のおかげで『可能性の文学』が読めるのは、私にはうれしいことです。
2008/2/13(水) 午後 10:00
志賀直哉という日本の心境小説の祖があって、それに飽き足らない作家たちが優れた作品を残したのでしょうね。
2008/2/13(水) 午後 10:15 [ 遠い蒼空 ]
こういう対立がないから、停滞してるんでしょうかね?
・・・・・今は。
2008/2/14(木) 午後 0:22 [ すいす ]
権威があり、それに対立するという構図は全くないですね。
文壇はもう消滅し、評論も停滞し、売れるかどうかだけになりましたね。
2008/2/14(木) 午後 0:35 [ 遠い蒼空 ]
志賀の作品を文学でなく文章といったのは安吾でしたか?青い時代に読んで感動した「城の崎にて」も、見方を変えるとまるで昆虫学者のような志賀先生です。
2008/2/14(木) 午後 2:44 [ hanshirou ]
太宰の「斜陽」を志賀が批判したのを太宰が「如是我聞」で反論したのですが、志賀直哉はその頃にはもう名前だけの小説家でしたね。何も書いていません。
2008/2/14(木) 午後 3:16 [ 遠い蒼空 ]
文学というものの普及形態が、学術論文のような非売品ではなく、商品となったことは、その幅広い普及にとってはプラスに働いたのだと思いますが、そのことが今はかえって一気に衰退に追い込む結果になったようにも思われます。もし、再び普及していくとしたら、どのような普及形態をとるのでしょうか。やはり、純粋な商品としてなのでしょうか。本当に芳香を発するものは、出にくくなっているように思いますが、どんなものでしょうか・・・?
2008/2/14(木) 午後 9:17
先のことは全く見えません。小説が商品として売れることが優先されるようになったのは意外に最近、と言ってもいいように思います。それがどういう方向に向かうのかは分かりませんが、小説の読者が何を求めるのかで方向は決まってくるでしょう。そういう意味ではこのさき来るのは小説読者の断片化のような気がします。
2008/2/14(木) 午後 9:51 [ 遠い蒼空 ]
文学が好きな方々のブログでは辛うじて読者の繋がりはありますが、これから文学の愛好者が増えてくるとは思えません。文学の幸福な時代は再来しないように感じられます。
2008/2/14(木) 午後 9:58 [ 遠い蒼空 ]