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が問題化したのは日本ではフランスの文学理論の影響を受けたからだろう。
ロラン・バルトの紹介などのあとに少しずつ作者が何ものかということが評論にも現われるようになった。
大学での研究はもっと前からなされていたと思う。私が卒論を書いたりした 60年代からであろう。
まだ、主流は伝統的な「人と作品」であった。
「現代詩手帖」の 1982年 2月号に、特集「〈作者〉とは何か」があり、そこでもまだ、フランス流の新批評が広まったにも拘らず、日本では作者支配の体制は変わらない、と述べられている。
それは今もまだ変わらないのではないか。
語り手=作者、日本の私小説の伝統は根強く、作品本位の評論は少ない。
匿名だったり、ペンネームだったり、作者は姿を表すことを避けても、読者は作者の実像を求める。実像などないのである。
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ずうっと、おんなじことを、おんなじ感性で思っていることは、おんなじひとりの人間でも、不可能だと思います。人の心は移ろいやすい。
小説とは、作者の、書き初めから書き終わりまでの、“気分の反映”だと思います。
なので、後から書き直したりするのは、本当はよくないことなのかもしれません。
“作者の今の気分‐作品と縁が切れたあとの‐”が注ぎ込まれてしまうから。たとえ、整合性は取れても。
2011/4/9(土) 午後 3:18 [ onkun ]