|
引用続き。
忽然として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。縞の吾妻コートを着て、俯向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いと見えて、肩を窄めて、両手を前で重ねて、出来るだけ外界との交渉を少くしている。美禰子はこの凡てに揚がらざる態度を門際まで維持した。その時、往来の忙しさに、始めて気が付いたように顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の目に映った。二人は説教の掲示のある所で、互に近寄った。
「どうなすって」
「今御宅までちょっと出た所です」
「そう、じゃいらっしゃい」
「ここで御目に掛かればそれで好い。先刻から、あなたの出て来るのを待っていた」
「御這入りになれば好いのに。寒かったでしょう」
「寒かった」
「御風邪はもう好いの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色が好くないようね」
男は返事をしずに、外套の隠袋(かくし)から半紙に包んだものを出した。
「拝借した金です。永々ありがとう。返そう返そうと思って、つい遅くなった」
美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包みを受け取った。しかし手に持ったなり、納わずに眺めている。
「あなた、御不自由じゃなくって」
「いいえ、この間からそのつもりで国から取寄せて置いたのだから、どうか取って下さい」
「そう。じゃ頂いて置きましょう」
女は紙包を懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンカチを持っていた。鼻の所へ宛てて、三四郎を見ている。ハンカチを嗅ぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンカチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い香がぷんとする。
「へリオトロープ」と女が静かにいった。三四郎は思わず顔を後へ引いた。へリオトロープの瓶。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明かに懸かる。
「結婚なさるそうですね」
美禰子は白いハンカチを袂へ落した。
「御存じなの」といいながら、二重瞼を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気遣い過た眼付である。そのくせ眉だけははっきり落ちついている。三四郎の舌が上顎にひっついてしまった。
女はややしばらく三四郎を眺めた後、聞兼るほどの嘆息をかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加えていった。
「われは我がとがを知る。我が罪は常に我が前にあり」
聞き取れない位な声であった。それを三四郎は明かに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして分れた。
|
この辺りから、落語調から脱却して、読みやすくなった感じがします。簡潔な表現になったというか。より、好きになりました、私は。
2009/12/12(土) 午後 9:01 [ おんくん ]
この文章は名文ですね。現代的でもありますね。
2009/12/12(土) 午後 9:14 [ 遠い蒼空 ]