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ある大手通信社の注文で書いた文章です。そんな雑誌が出ているとは知りませんでした。 60歳になったから注文がきたらしいので、誌名に合わせて健康のことを書いています。一部略。 「最近、自分の年齢とうまく折り合いがつかない。六十歳であることが信じ難いのだ。 十代の頃、三十歳の自分を想像することは困難だった。三十歳の頃、五十歳の自分は、やはり予見できな かった。しかし、五十歳になった時には、半世紀生きてきたんだな、という感慨があった。五十代は瞬く 間に過ぎた。六十歳の誕生日を迎えた日は憂鬱だった。昨年の暮れに膝を骨折して、リハビリ中だったた めでもあるが、もはや老人と呼ばれてもおかしくない年齢に足を踏み入れたということは正直言って嬉し くない。 学生の頃、小説を乱読していて、よく、一生の間に何冊の本を読むことができるのだろうかと考えた。研 究を生業とする仕事柄、本を読むのは生活の一部だが、近頃は雑用に紛れて、本を読む余裕がなくなって いる。が、今なお、読みたい本は増えることはあっても減ることはない。老化する一方の頭と目に抵抗 しながら、一体あとどのぐらい読めるのだろうか。 せめて、週にニ、三冊は読みたいと思いながら、自宅にも大学の研究室にも、未読の本がうずたかく積み 上げられ、山をなしている。溜息が出る。 読書に限らず、したいことは年とともに増すばかりで、あれもしたい、これもしたい、と好奇心だけは 旺盛なので、もっと時間がほしい。ところが、時間は加齢につれ、素早く流れてゆく。一年はあっという 間だ。これからは一段と早く時間が過ぎてゆくのだろう。そう思うと気がせく。 そろそろ身辺の整理をしないといけない時期だろうが、こんな調子ではそれも覚束ない。悠々自適の日々 を送るとか、悟るなんてことは一生できないだろう。俗塵に塗れて、あれこれ悩みながら、まごまごしな がら、死ぬまで生きてゆくのだろう。 毎日は同じように過ぎてゆくようで、実は一日一日が初体験の連続なのだということを、この年になって 今更のように実感している。」 これを書いて半年後、いきなりの病気で入院し、その後退職をすることになった。全く人生は先が見えな い。
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またまた続きます。 「あらすか 「「こんなにアラスカみてゃに、さっびいとこ、あらすか」 「あらすか」は、「あるはずがない」を意味する名古屋弁です。 「古語の名古屋弁」では「行く」ことを「行かーず」、「やる」ことを「やらーず」と表現したと言われ ていますが、このセオリーで行けば、「ある」ことは「あらーず」と表現され、それに「か」(「かい」 の省略形と見られ、「かい」とすれば「きゃあ」となって「あるきゃあ」という言い方にも通じる)がプ ラスされたものと見なすことができます。すなわち、「あらすか」(「あらーずか」から変化)は「ある かい?」という疑問形であり、それは反語となって、その後に来る「いやいや、あるはずがない」という 意味のほうを強めることになります。だから、これも一つの省エネ型名古屋弁である、と言えます。 ほかにも、「やらすか」、「行かすか」、「取れすか」、「ねぶれすか」(「ねぶる=なめる、しゃぶる の意)など、「すか」のつく名古屋弁はどれくらいあるのか?「そんなもん、わからすか」、というぐら いあります。
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1992年に出版され、今はちくま文庫になっている。
当時はそうとう話題になった。 数年後に私が吉行について書いた文のなかでちょっと触れているので引き写す。 「「好色」は人間の自然の姿というのが、吉行の性に対する基本的立場であり、そのことが当然のこととして理解されるまでに、世の顰蹙を買いつつ、三十年以上、吉行は奮闘したわけだ。その挙句が「男流文学論」で「どこが反俗なのよ、通俗そのものじゃないですか」と斬り捨てられるのは、吉行には心外であったであろう。「男流文学論」こそ通俗ではないのか。文庫版で、上野千鶴子があとがきに書いているとおり、「エンターティニング」な「一回性のパフォーマンス」である。「吉行を読むのは、はじめてです」「ぜんぜん読めない」人の発言は、無責任な放言という以下にものだ。今時、「純文学」だの「文壇だのを持ち出して批評しているつもりなのこそ「アナクロ」である。文庫版解説で、斉藤美奈子が「「男流文学論」から五年たって、文学をめぐる状況は変わっただろうか。残念ながら、あまり変わっていないような気もする。毒は少しずつ、しかし着実にまわりはじめている。」と書く。吉行作品の評論は貧しく、「男流文学論」をめぐる批評家の反応には哂うべきものが多かったが、「男流文学論」が「文学という池に投げこまれたフェミニズム批評の一つの石である。その波紋の中からもっと多様性と厚みのある試みが生まれてくれば、わたしたちの意図は達成されたことになる」ためには、「一回性のパフォーマンス」ではない積み重ねが大切だと思うが、それはまだはっきり見えてこない。改めて、吉行は批判しやすく、理解されにくい作家でありつづけていることが分り、吉行作品を擁護する必要を再確認させてくれ、その意味では大いに参考にはなった。吉行の削りに削った省筆には無感覚なところが、読む力の衰弱をそのまま表わしていて、小説を読めないインテリ層の求めるものが見えてくるように思われる。太宰治に倣って、「嫌なら読むな」と言っておこう。共感のできないものを批判するのは勝手だが、それを批評とは呼ばない。」 |
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