遠い蒼空

末期ガン患者入院記録

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「美は人を沈黙させるとはよく言われる事だが、この事を徹底して考えている人は、意外に少ないものである。優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これにたいしては学問上の言語も、実生活上の言語も為す処を知らず、僕等は止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑え難く、しかも口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。そういう沈黙を創り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする。美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも実は遥に美しくもなく愉快でもないものである。
 美と呼ぼうが思想と呼ぼうが、要するに優れた芸術作品が表現する一種言い難い或るものは、その作品固有の様式と離す事が出来ない。これも亦凡そ芸術を語るものの常識であり、あらゆる芸術に通ずる原理だとさえ言えるのだが、この原理が、現代に於いて、どの様な危険に曝されているかに注意する人も意外に少ない。注意しても無駄だという事になって了ったのかも知れない。

例えば、風俗を描写しようと心理を告白しようと或は何を主張し何を批判しようと、そういう解り切った事は、それだけでは何んの事でもない、ほんの手段に過ぎない、そういうものが相寄り、相集り、要するに数十万語を費して、一つの沈黙を表現するのが自分の目的だ、と覚悟した小説家、又、例えば、実証とか論証とかいう言葉に引摺られては編み出す、あれこれの思想、言い代えれば相手を論破し説得する事によって僅かに生を保つ様な思想に飽き果てて、思想そのものの表現を目指すに至った思想家、そういう怪物達は、現代にもはやいないのである。真らしいものが美しいものに取って代った、詮ずるところそういう事の結果であろうか。それにしても、真理というものは、確実なもの正確なものとはもともと何んの関係もないのかも知れないのだ。美は真の母かも知れないのだ。然しそれはもう晦渋な深い思想となり了った。」
5章の殆ど全文。芸術作品を語って、これ以上の文章を私は知らない。

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ブログ二周年 ケータイ投稿記事

おととし、ブログを読みはじめ、いくつかのブログを読ませてもらっていたが、どうせならブログを作ろうと思い立った。
といっても、読むのが目的であったので、いい加減に作りはしたが、記事を書こうという気にはならなかった。
が、そのうち、自分の記憶を辿ってみようと思い、少しずつ書いていった。おととしはレイアウトなども全く考えず、とっつきにくいと評されたブロガーの方がいらしたが、それはまさに私自身がそういう人間で、最初はとっつきにくいという印象を与えるらしい。親しくなるとかなり違う印象を持たれる、ブログに人間が表れるのかとやや驚いたものである。
ブログはその後、おととしの十二月にあるブロガーの方に教えられて、書庫を作ったりし多少は変わったが、とっつきにくいのは変わりないだろう。
そのまま、身辺雑記なのか文学についてなのか記憶を辿るのか、わけの分からないままに続けてきた。
これからまた辛い時期に差しかかるので、いつまで続くか、いつ姿を消すか分からない。三年目になり、少しは進歩したいと思いはするが、相変わらずコメントは下手だし、こんな状態が続くのだろう。
訪問をされ、コメントをして下さる方々にはお礼と感謝の気持ちを表したい。

ありがとうございました。これからも、命ある限り、よろしくお願い致します。

個人全集 ケータイ投稿記事

多分、岩波書店の「漱石全集」がその後の個人全集の規範になっているのだろう。
漱石が書いたものすべてを、書簡集まで収録した。
その元には欧米の全集がある。
かくして、全集は作品集とは類を異にするものとなった。作家個人を知り尽くしたいという読者に向けたものとなった。
作家論が文学研究の中心になるのはそうした背景があるのだろう。
作家に興味を持つのは自然なことで、それ自体が問題ではない。
文学研究はそれだけ、という考え方が問題なのである。
作品を他の作品と比較し、時代の特性を研究したり、作品を細かく分析して、そこから何かを発見したり、作品を生み出す行為を研究したり、作品の成立を研究したり、まだまだ多様なアプローチがあったのは20世紀のさまざまな研究が明らかにしている。
それでもなお、野心的な研究者は新たな方法を探ろうとする。
それらすべてを超えて、作品は謎として読者に再読を誘う。

「この、短いようで長く、長いようで短い人生を、どう生きたらいいか。楽しいようで苦しく、苦しいようで楽しい人生を、どう生きたらいいのか。一言で決定的に言うことができる。
一生懸命、生きる。
わはは。驚いたかね。しかし、驚こうと、あきれられようと、人生はこの一言に尽きている。ぶざまであろうとなかろうと、一生懸命生きる。これが「自分の人生」だ。・・・古今東西、世界のだれがなにを言おうと、人生に向かう姿勢はこの一言に尽きている。
・・・よって、それにつづく一言はこうである。
あとは、なるようになる、なるようにしかならない。」

全体小説の幻想 ケータイ投稿記事

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19世紀、20世紀の西欧の巨匠たちの長編小説に比べて、日本の私小説的な小説を矮小なものと思った第一次戦後派の小説家たちは、全体小説を理想として書こうとした。
野間宏、武田泰淳、中村真一郎、埴谷雄高の他、西欧型全体小説?でなければ、小説にあらず、という小説観が一斉を風靡した。
第三の新人が登場しても、なお、その幻想は続いていった。第一次戦後派を継承しようという作家がいつまでも持て囃されたからである。
壮大な小説世界を創りだした西欧型小説を勘違いして受容したこと、小説の限界への無知が原因だろうか。言語実験についての無理解もあるだろう。
自己の能力を考えず、気負いが大きすぎると、哀れな結果になる。
が、今なお、その幻想は亡霊のように徘徊している。

私が勤務していた大学で、小田実を講演に呼んだことがあった。講演のあと、少数の教員としばし雑談をする習慣になっていたが、その時は集まりが悪かったのか、私がキャンパスを歩いていると、参加を頼まれた。
講演の前日に出版された「私の文学 「文」の対話」を買って持っていたので、それを持参し、署名をしてもらった。
本には全体小説の幻を追い続ける評論と、武田泰淳、埴谷雄高との鼎談、大岡昇平、中村真一郎、中上健次その他との対談が収録されている。
小田実に限らず、ついに、若き日の影響を脱することなく、最後まで幻想を追い求めて逝った作家はたくさんいるに違いない。

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