遠い蒼空

末期ガン患者入院記録

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前にちょっと書いたが・・・
なぜフォークナーを読み始めたかははっきりしない。
学生時代、小説を書こうとしていて、既成の形式に従って書くのは模倣にすぎないように思えた。若いから気の持ち方はいっぱしである。そこで、実験的小説に関心を持ったのだろう。
翻訳されている作品から読み出した。最初は「死の床に横たわりて」だった。
丸善で「八月の光」のペーパーバックを見つけて読んだ。「サンクチュアリ」は翻訳で読んだ。
代表作のように言われている「響きと怒り」の翻訳は当時、なかなか入手できないと言われていた。何かの文学全集に収録されているのだったが。
そのうち丸善で、仏訳を見つけた。ポケット版である。それを読んだ。感動した。
邦訳はあとで見つけた。やがて邦訳は文庫化もされた。新訳も最近、出ている。
他の作品では、「アブサロム、アブサロム!」がよかった。
コメントにも書いたが、再読する気になるのは「響きと怒り」だけである。これまでもそうだった。

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年配の女性に聞けば分かるのだが、あいにくそういう人がいない。
検索してみると「腋毛フェチ」のブログがあった。
いつ頃が境目か、手近なところで考えてみる。
まず、吉行淳之介の「星と月は天の穴」から引用。
「・・・紀子の左腕が脇腹から離れて持上がり、ゆるやかな動きをみせて、頭の傍に落ちた。その腕は、いかにも重たそうに、快楽に満ち溢れた重たさで、弧を描いて落ちてゆき、腋か(漢字変換できず)があらわになった。その腋かには黒い色はなく、滑らかな白い色が剥き出しになっている。少女の骨格を残している紀子が、躯を捩らして、腋かの毛を除き去っている光景を想像して、彼ははげしく唇をその部分に押し当てた。」
これが1966年雑誌に発表され、その年、単行本になった作品。
私の経験では、1964年まで付き合った子が夏にノースリーブのワンピースを着る時に、腋毛を剃っていた。普段は剃らないで、そのまま。毛質は薄かったが、愛撫の必須箇所であった。
1965年に付き合った子は剃っていなかった。記憶がはっきりしなくて少し時間が飛ぶが、1973年に付き合った子は剃っていなくて、その理由として「ノースリーブは着ないから」と言った。
70年代から剃るようになったのか。70年代後半に剃っていない子を知っている。
80年代は既に剃るのが普通になっていた、と看做していいのだろう。
追記。腋毛は陰毛と毛の質が同じだと考えられます。だから、腋毛を見れば陰毛の状態も推察できる。
それが腋毛を剃るようになった遠因ではないでしょうか。

ある文学少女

深沢七郎の文章を引用したり、コメントをいただいたりしているうちに思い出したことがある。
学生時代、梅崎春生が死去した昭和40年以降だった。
新聞だったと思うが、探しもの欄のような小さなところに、梅崎の「幻化」の載っている「新潮」を探している、と書いた女性がいて、見るとすぐ近くの住所である。電話をしたのかどうか、記憶は曖昧だが、結局、自宅へ持参することになった。雑誌を渡し、すぐ帰るつもりだったが、その十代らしき少女が詩
を書いているので見てほしいという。一人で同人雑誌まがいのガリ版の冊子を作ったりしているという。それを借りてきて、幾つかの詩を読んだあと返しに行った。感心した詩はなかったが、一つだけ才能の芽を感じさせる詩があったので、それを褒めた。
それはそれだけのこと。ただ、高校生くらいに見えるその少女は、学校へは行っていないようで、うちに篭もっているらしい。やや異常な家庭環境を感じとった。
それから数年年あとか、深沢七郎の「人間滅亡的人生案内」だったと思うが、読んでいるとその少女が深沢七郎に相談して、深沢七郎が答えているのが掲載されていた。殆ど憶えていないが、少女の悩みがファーザーコンプレックスだったということだけが記憶にある。Mさんというその少女に深沢七郎がどんな回答をしていたのかは全く憶えていない。
本が手元にないので確かめることができない。
家庭の雰囲気が異常なように感じられた。相談の文章を読んで、はっきりそう書かれていたわけではないが、あぁ、そうかと納得した。近親相姦だろうと。

作家のタイプ ケータイ投稿記事

結末までしっかりと構想ができてから書きだす作家。なりゆきに任せて書くうちに自ずと結末に至る作家。
読者を意識して書く作家。内なる読者に向けて書く作家。
書くことが愉しい作家。書くのが嫌いな作家(笑)。
しかし、書かずにいられない何かに突き動かされて書く。書かなければ生きていけない状況は稀にあるものだ。
書くことが仕事になった人を作家というのだろうが、それは同じことを手を変えて書き続けるしかない仕事だ。
作品が優れたものであれば、作家がどんなタイプであろうと構わない。作家の名前は単なる商業的な品質保証くらいの意味しかない。

純文学 ケータイ投稿記事

文学が変質したのは、極端に言えば、文学者が豊かになったためだろう。
文学者が社会的に認められた存在になり、収入も増え、貧乏がテーマとなりえなくなった頃から文学は既成の価値となってしまった。
少数派の代弁であるはずのものが、多数に認知されたわけで、そのため純文学という概念が意味を失った。
しかし、境界線が曖昧になったとはいえ、多数に読まれる作品が大衆的娯楽となるのは当然であり、今でも少数にしか理解されにくい作品はある。

単純化できない問題だが、例えば漱石の作品はどうだろう。純文学であり、大衆的娯楽性をも同時に持つこともありうる例である。
鴎外が大衆的に読まれないのと対照的である。

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