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外出して本屋に入ると何か買わずにはいられない。
見てしまうとつい買ってしまう。 フォークナーの「響きと怒り」の新訳が岩波文庫から出ていた。買わないではすまない。でも、上下に分冊になっているのは駄目だ。この作品は一冊にしなければ。岩波は不親切だし、センスもない。最近やっと他の文庫並になってはきたが。 序でに一通り見てまわり、6種7冊買った。文庫本に留めたのは私にとっては堅実な方である。 また序でに、20世紀の西欧文学を10作無理やり選ぶとすれば、フォークナーは逸せない。どの作品を選ぶかは異なるだろう。10作品に入れざるをえないのは、ジョイス、プルースト、トーマス・マン、そらから影響力を考慮して、カフカ、カミュ、ボルヘスあたりか。ナボコフは20世紀人かな? 何か忘れているかもしれない。森の石松?(笑)。 日本の作家は入り込めないね。 |
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鴨居羊子の「下着ぶんか論」から引用。 「透明下着と偽善の教養 私は「新しい下着は透明な下着である」とさえ考えています。もともと私たち人間は、ガラスのようなドレスを着るという夢をもちつづけてきました。麻とかの、透いた布を肌につけることはエジプト、ギリシアのころから高貴のこととされてきました。中世を通じてはセミの羽のように透いた絹やレースへの憧れがありました。降って一九一ニ年ごろにはX線ドレスと呼ばれた透きとおる服などの話題があり、ついにニ十世紀後半に純粋に透明なナイロンが登場しました。(略) 「体が透いて恥しい」と言う言葉は男の前でショッキングな下着姿をみせたいという潜在的な願いのあらわれなのです。何も透明下着だけに変な目を向けないでも、この娘さんたちの外衣をみてごらんなさい。 タイト・スカートで腰の線を浮彫にし、ひざ小僧をのぞかせ、ももまで切れ目を入れて肌をちらつかせ、肩、背、首、胸はあらわにし、さては体の全ラインに密着するドレスを着て、すべては官能的傾向ばかり。この官能スタイルで日夜男を刺激しているはずなのに、この効果を決定的にする透明下着の魅惑にだけは背徳観をもちます。なんというおていさい屋であり、偽善でしょう。全くこれこそ彼女の古い教養や趣味が仕向ける中途半端な不決断です。これは娘の罪というよりは古い社会の責任です。透明下着の今日性は女の体の彫りを十分にみせ、セシボーンな感動を着る人にも、見る人にもおこさせるだけでなく、さらに色を加えて、女のヒフの色、筋肉のかげりなどと交錯させ、虹のように妖しいムードをかもすところにあります。 今後いろんな抵抗をしりぞけて、透明下着が広く愛用されてゆく速度は、きょうはこうだから明日はこうだ、といったいままでの計算でははかれないすばらしいスピードでしょう。この現代の化繊の可能性に背を向けないで下さい。」 これが書かれて半世紀近い。革命は完成したのだろうか。 写真は鴨居羊子の下着ショー。
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井伏鱒二が「自選作品全集」出版の際、初期の名作「山椒魚」の結末部分を削除したことは有名であろう。これまで教科書にまで載っていた結末がなくなってしまった。一時いろいろな評論が交わされたが、井伏は「山椒魚」に限らず、頻繁にテクストの改変を行っている。死後に刊行された「井伏鱒二全集」はそのことを十分考慮した上で、本文確定をしている。初出雑誌まで遡って、最もオリジナルなテクストを採用したのであったと記憶している。本を探すのが大仕事なので、確かめるのは後ほどにしたい。井伏は今、天国にいるのか地獄にいるのかは知らないが、余計なことしてくれて困っちゃうなぁ、と怒っているだろう(笑)。 吉行淳之介が発表した作品を版が変わるたびに改変していたのはそれ程知られていないのではないか。 大きな改稿をした時は、自身でそう書いていて、読者にも断っている。書いていない場合でも、改版、新版の際には目を通して文章を替えたり削ったりしているのは気付かないことの方が多いが、新版(文庫化されたりした時など)が同じままにされていることは少ない。「コールガール」という作品など、そうとう削られている。 最後の著書「懐かしい人たち」は確か四版までは吉行が改変している。以前、吉行の出版社の担当宛て自筆ハガキのことを書いたが、その文面はそのことに触れていたのだろうと思う。病院でもその作業をしていたようだ。 私は吉行が雑誌初出を大幅な改稿をし単行本にした作品を偶然扱おうとして、まずテクストの確定をする必要があって、数種の版の比較をせざるをえなくなった。そのことはまた次回にでも書くことにしよう。 マンガの話になるが、手塚治虫が頻繁にテクストの改変をしていたのは一般読者には知られていないかもしれない。マンガ批評家もそのことを気にもしていなかった。が、手塚マンガの評価は本文批評なしではできないのだ。例えば、代表作「ジャングル大帝」は、漫画少年」初出以来、単行本になるたびに絵も台詞(ネーム)も度々改稿され、手塚自身がどれが本物か分からないと言っている程であり、どの版で読むかによって全く別の作品になってしまい、感想を述べるなどをする時には、どの版で読んだか確認する必要があるのだが、たかがマンガという扱いをされてきたので、マンガ批評には本文批評を考慮するものはなかった。 私はその点を指摘したのだが、無視されている。「手塚治虫漫画全集」は正確なテクストではない。 これも次回に書いてみたいと思っている。 なお、私のブログの走り書きのメモも度々間違いを書きなおしている(汗)。
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テクスト・クリティック。 文学作品の本文の確定をする基本的研究のことである。 「特定の原本や草稿を発見したり、それが失われたりしている場合には、さまざまな刊本や現存する草稿部分などを比較して、作品の創作段階を跡づけ、出版上の誤りを修正し、できるだけ作者の最初の意図に近いと思われる決定的な版を作る。しかしこれがじつにさまざまな確定不可能な問題を伴うことは、シェイクスピアの版本確定の困難さ、最近ではJ・ジョイスの「ユリシーズ」(1922)の決定版をめぐる論争が泥沼化していることからもわかる。」(川口・岡本編「文学批評用語」1998。研究社出版より) 私が主に携わってきたのはこういう研究であった。これを面白く思ったのは、井伏が本文を頻繁に書きなおすことを知り、「さざなみ軍記」の入手可能な部分で試してみたのが始まりである。大学院の時であった。 それは個人的な試みであったが、フロベールの研究にもこれが必要であった。その頃はまだフロベールの草稿は個人が所有していたりして完全なテクストは確定困難な状態だった。「感情教育」の研究をメインにしていたのだが、そういう基本的問題のため、草稿は推測するしかなかった。決定版全集もまだできていなかった。 決定版全集ができ、その後、草稿も発表されて、すぐにフランスの研究者が研究書を書いたので、私は研究のテーマを失ってしまった。日本にいては何事にも不利である。 ちょうど、吉行への興味が高まっていた時だったので、そして、吉行もまた、井伏同様、本文のなおしに気を使う作家だと分かったので、吉行の研究をしようと思いたった。 フランス文学を専門にしたのだが、元々日本の文学の研究をするのが希望であった。フランス文学を研究してフランスで認められたりすることは思ってもいなかった。日本の文学のためにフランスの文学研究の方法を知っておきたいと思っていたのである。私はフランス人ではなく日本人であるから、それが当然と考えていた。フランスに憧れてフランス文学を選んだのではなかった。フロベールやネルヴァルに興味があったからフランス文学を専攻した。「おフランス」の人(フランス人になりたいと願うフランスかぶれ)は嫌いだ。 本文批評はどの作家にも必要だが、私がこの作家は絶対に必須だと思う作家は、一に井伏、次いで吉行、それから、小説ではないが、手塚治虫である。 また続きを書くつもりです。
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モテたことがないので、モテモテの人の気持ちを理解できません。 |

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