遠い蒼空

末期ガン患者入院記録

どうでもいいこと

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私の書いたものは全部ここに入りそう(笑)。
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道の歩き方 ケータイ投稿記事

いつからだろう。歩いていてヨケる人が少なくなった気がする。
舗道、またはスーパーのなかの通り道、こちらがヨケないとぶつかってしまう。舗道いっぱい何人も並んで歩いてくる。隅っこに寄らないといけない。
道の歩き方にさえ時代により差がある。
一体何のせいだろう。歩き方を教えられていないのか。とすれば親の責任だが、そういう歩き方をするのは年齢に関係ない。大の大人がそうなのである。
パードン(失礼)というべき時にも言わないのも同じである。

自由 ケータイ投稿記事

ものを書くのに制約はできるだけない方がいい。
小説はまだ制約が少ないから、小説を書く人はたくさんいる。
仲間同士で誉めあうような芸術はない。
それはそれを道具としたお付きあいにすぎない。
自由のない定型は頭の固い伝統主義者のお城である。
わび、さび、そんな時代錯誤がなお徘徊しているのは不思議でならない。

死んだ芸術 ケータイ投稿記事

伝統は優れた才能が現れて新しい形をとることがなければ死ぬ。
小説は既に死んでいるかもしれない。
まして・・・
しかし、死んだ芸術でもそれを弄ぶ人が多数存在すれば生きているかに見える。
空虚な自己満足。それは表現するものが最も避けなくてはならない。

ではまた明日。
命あらば。

七五調 ケータイ投稿記事

五七五、または五七五七七。
俳句、短歌の基本はそれを外れることはあっても、その範囲を出ることはない。
素人の俳句、短歌が芸術か?
毎日、一つできてしまう芸術!
七五調は嫌いであるわけではない。七五調で喋れば変だが、このところ書いていないが、歌謡曲が好きだと何度か書いた。
歌謡曲は七五調である。曲がつくから歌うのはおかしくない。
これは開かれたものである。
秘密結社のような仲間同士の寄り集まりは私は好まない。
小説入門は開かれた情報交換として行ってきたつもりである。

俳句、短歌、再び ケータイ投稿記事

句をひねる人は多いだろう。短歌を詠む人も多いだろう。
伝統的なものだから、今でも巷に氾濫する。
仲間内で楽しむのに何を言う気もない。
しかし、嫌いだ、というのはそのものが嫌いなのではなく、仲間意識が嫌いなのであろう。
太宰治は志賀直哉の批判に対して「如是我聞」を書いた。文壇の無意味な伝統に歯向かったのである。命をかけて。
だから、太宰治の小説は志賀直哉のような私小説では決して、ないのである。
私は小説が好きだ。伝統には無関係な芸術だから好きなのである。散文というのは自由があるから好きなのである。
私も命をかけて言っている。


追記:太宰がそうしたように道化になって座を盛り上げようとしたが、通じなかったようだ。伝統に胡坐をかいているのでは期待できない。

また追記:短歌・俳句は芸術ではない。文学ではない。芸事にすぎない。

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