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「現代詩手帖」1982年 2月号は「〈作者〉とは何か」を特集している。
花輪光の「虚構の作者」冒頭を一部引用する。
ブランショがプルーストに関して、「語っているのは誰か」を問い、フーコーが「作者とは何か?」という問いを発し、バルトが「作者の死」を要求して以来、「作者」の地位はどのように変わってきたのか。…
…作品さえ存在すれば、「作者」は、たとえ「生活不明」でも…「作者」として存在することができる。このような意味では、「作者」とは「作品を生みだした者」というよりも、むしろ「作品によって生みだされる者」である。
にもかかわらず、現実の「作者=人間」による「作品」の支配は依然として続いている。「作者」は、「作品」との関連においてのみ存在するどころか、「作品」に先立って、「作品」の外に存在し、「作品」によって「自己」を表現するものと見なされ、「作品」は「作者」の思想や心理を反映するものとされる。相変わらず「文は人なり」であって、「人は文なり」ではないのである。「作者」を「作品」の「生みの親」として、「創造者」として、「起源」として、「原因」として絶対に優先させる、こうした「表現」の論理に対しては、とりわけ「構造主義」以来、いやというほど異論がとなえられてきた。しかし、いわゆる「へその緒論」はいまも健在である。この論によれば、鶏(作者)は卵(作品)を生むが、その逆はありえないということになる。(引用終わり)
今もって事態はこの特集が組まれた時と少しも変わっていない。
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