遠い蒼空

末期ガン患者入院記録

小説入門「遠い蒼空」教室

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えー、まだ感想文はお二人しか書かれておりませんが、ここで読む際のポイントを列挙しておくことにします。

作品の冒頭に「子供より親が大事、と思いたい。」と書いてあります。これは結末でも同じことを「私」が呟く、ということで重要なポイントです。
あくまでも、思いたいのであって、そう割りきれないことは作中、詳しく書かれています。
そして、この「私」はとても家族思いのやさしい父親であることも分かります。
妻に対しても気を使い、日頃、言いたいことも控え、ただ、夫婦間の意思の疎通はそれなりにうまくいっている。話して楽しい家庭にしようと「私」は一生懸命です。
そして、途中で語り手は「実はこの小説、夫婦喧嘩の小説なのである。」と作品のテーマ(という言葉はあまり使いたくないのですが)、内容をはっきり書いています。
それから、「私」という一人称は時に「父」「夫」と書かれる場合もあり、語り手の作品からの距離は十分考えられています。
語り手は小説家ということになっていますが、これは別の職業であっても変わらない、と考えて構いません。
おしまい近く、「生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。」という重要な文章があります。
最後は飲みに出て、桜桃を食べる場面で話は終わりますが、飲みながらでも子供のことを考え、桜桃で娘の首飾りを作る想像をしたりしています。
コメントで触れましたが、桜桃を「食べては種を吐き」というフレーズを三回繰り返しております。
ポイントはこれを無頼派作家の作品だ、と思い込んで読むのはどうかということです。

追記:この作家が自殺未遂を繰り返したり、心中で死んだことで暗いイメージを持たれている方が多いかもしれませんが、自己の弱いところを作品にあからさまに描きつつ、同じように弱い読者に肯定的なメッセージを伝え、弱くても生きてゆくことを促しています。自己肯定的な作家である、と私は思います。一番の傑作「津軽」にこの作家のよいところが表れていると感じます。

えー、課題にする小説のリストを纏めておきます。
比較的早くに読む予定のものとやや時間をかけて読む作品とを改行で区切りました。

 太宰治「桜桃」
 深沢七郎「楢山節考」
 吉行淳之介「大きい荷物」(短編集「目玉」所収)
 夏目漱石「三四郎」

 カミュ「異邦人」
 川端康成「雪国」
 井伏鱒ニ「珍品堂主人」
 吉行淳之介「夕暮まで」
 チェーホフ(作品未定)
 未定(女性作家)

ネルヴァルの「シルヴィ」を入れたいのですが、全集の訳はどうも気に入らない。と言って、大学書林の語学文庫の新訳(フランス語と対訳の本です)をみなさんに買ってもらうのも無理だし。これはいい小説なのですが、よさはフランス語でないと半減します。

私の趣味で偏っているのがありありと見えますが、一応最初の四作品で始めたいと思います。

えー、本日のポイントは「距離」ということです。

例えば、絵画を観る。
絵に近づき観る、やや離れて観る、絵との距離を少しずつ変えてみると絵は距離によってよくその魅力を伝えます。
コローの小さな絵はあまり遠くからではよく分からない。近づき、距離を計りながら、また離れてみたりする。絵の全体を見られる場所、細部を見られる場所、それぞれに距離が大切です。
コローの人物画は音楽で言えば室内楽です。

そろそろ本題に入りますが、距離ということを吉行淳之介がよく書いておりました。
作者があまり作中の人物に接近しすぎていると失敗する。作中人物との距離を測ることが成功した時、散文詩ではなく、小説が書けた、と言っています。
これは作品が一人称で書かれていても三人称で書かれていても関係ないわけですが、一人称で書くととかく距離が接近しすぎる。
慣れない間は三人称で書いた方がいいかと思います。
作品に対した時、読者もまた距離をとる必要があります。あまり入り込んでは全体を見失う。細部にこだわるのは必要ですが、細部しか見えないのでは全体が分からない。
これは相当困難な作業でありまして、経験を積むことが大切です。
えー、言葉が足りない感じですが、絵画について述べたことから類推して下さるとよいかと思います。

外山滋比古のことは以前に少し書いたことがあります。
「近代読者論」はいち早く読者論の提起をしました。
小説は読む人ひとりひとりが受け取り方が違う。読者の数だけ作品ができてくる。
そうした作品はそれぞれに異なっておりますから、そこから「異本論」という著書が生れる。
読み方が重なる部分もあるから、長く読まれている間に一つの普遍的な読み方が作りあげられ、そういう作品が古典として残ってゆく。
えー、手元に本がありませんので、自分流に変えて話しておりますが、読みの共通する部分とすれ違う部分があるからこそ、お互いにどう読んだかについて意見を交わすこともできるわけであります。
ここで大切なことは、ただ一つの読み方、ただ一つの意味、というものはあり得ない、ということです。
いかに生育環境が似ていても、考え方が似ていても、全く同じ読み方をすることはあり得ない。つまり、正解というものは小説を読む行為にはないということです。


えー、それから(21)で読むもののリストを挙げましたが、変わっています。
今のところ、「桜桃」「楢山節考」「大きい荷物」はそのままです。
残る7作品は「三四郎」「雪国」「異邦人」はそのまま、あと、チェーホフ、井伏は作品の入れ替え、あとの2つについては吉行淳之介「夕暮まで」、そして未定ですが、女性作家を入れたいと思います。

えー、まだコローの絵に心が向きがちですが、関連して少し述べたいと思います。
コローの絵は、それまでの絵とは違い、絵に意味を持たせず、単に色彩の見事さを全面に出したことで画期的だと言われています。
絵が何か意味を持たなければならないという考え自体おかしいのですが、それは音楽においてさえ、そういう傾向がベートーヴェン以来その方向になっていったのですから、あり得ないことではないのです。
テーマ、という悪しき言葉が次第に芸術を語る場合によく使用されるようになりました。
小説においてはそれは今まだ主流であるように感じられます。
小林秀雄が、美は人を沈黙させる云々の芸術論を書かなければならなかったのはそういう傾向があまりに芸術の享受を歪めていると思ったからでしょう。
物事の意味を求め、早く結論を出したいというのは一種の近代病でありましょう。
職業として評論をするためには何らかの意味づけをしなくてはならないのは分かります。
しかし、もっと悠然と、作品に対応し、沈黙の対話をすることが芸術の享受には必要なのではないでしょうか。


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