遠い蒼空

末期ガン患者入院記録

井伏鱒二

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この短篇集には「ある青年」と「温泉夜話」をのぞくほかは最近に書いた作品を集めた。主に昨年の下半期と今年の上半期に書いた短篇である。
「ある青年」は、私の創作ではない。文中の「手紙」も「遺書」も「記録」も、みんな梅林君といふ青年の書いたもので、すなわち文中の曾木君といふ青年は実在の梅林君である。
私と知り合ひになつた当時の梅林君は、「文学界」の編集記者であつた。しかし投げやりな人だからつとまらない。失職したといふ通知が来た。つづいて手紙と原稿を送つて来た。あとは文中にある通りだが、私が梅林君の希望で雑誌社に持ちこんだその原稿は断わられた。それで更らに梅林君の希望で「梅林」を「曾木」と変へ、私の編集した形式で雑誌に出した。もうそのころ彼は京都に行つて映画監督の助手になつてゐた。ところが、ちよつと上京したついでに三鷹の太宰治の仕事部屋を訪ね、睡眠薬を百錠一度にのんで死んだやうになつた。この知らせで私が太宰の仕事部屋に駈けつけると、梅林君はもう病院に送られて蘇生してゐるといふことであつた。しかし太宰君にとつては相当に衝撃的事件であつたらう。人のうちに来て初対面の者が眠り薬を飲むとは何ごとかと太宰は腹を立ててゐた。失礼な男だと云つてゐた。
あとできくと、梅林君は太宰君のところで筋合ふの店の赤いランタンを見てゐるうちに、つい薬をのむ気になつたさうである。京都かは汽車で来て一睡もしないで太宰君を訪ね疲れてゐたせゐもあると云つてゐた。私にはどうもその量見がわからない。
京都に帰つた梅林君は、人づてにきくと映画俳優になつて一度か二度出演した。それから間もなく川に身を投げて亡くなつた。「遺書」は遺書となつた。文中の曾木を梅林と訂正する代りに、解説を加へる次第である。

ここに収録した六篇は、昭和ニ十三年の春から二十四年の春にかけて、一応みな雑誌に発表したものである。しかし他の自著には、いづれも収録してゐない。
「普門院さん」といふ作品は、阿部道山師著「小栗上野介伝」によって書いた。篇中人物の会話の大半は、道山師の文章を殆んどそのまま借用し羅列したものである。しかもモデルは道山師である。名前も実名にさせてもらった。その意味で、この作品は実話である。無論、私は道山師の許可を得るために、道山師の一族、阿部正二郎君に連絡の労をとって頂いた。はじめ私は、道山師の文章を借用するに際し、自分の書きいいように変型しながら引用しようかと思つた。しかしそれは止した。いづれ私は、上野介の史伝を書きたいと思つてゐるが、いまはそのノートの一部のつもりでこの試作をしてみたのである。道山師と阿部正二郎君に、私の妄を詫びると同時に深甚なる謝意を表したい。
「試験監督」といふ作品は、はじめ「芳村氏の饒舌」といふ題で文藝春秋に発表した。締切りが迫つてゐて、とりあへず仮りに、採用した題であった。今度、訂正した。私は、連載もの以外のときには、作品を書き終つてから題をつけるたちである。たいてい読みかへした後で題をつけてゐる。しかし題を事後につけるか事前につけるかの問題は、どうでもいいことだと私は思つてゐる。

(収録作品、「立候補勧誘」「牛泥棒」「普門院さん」「虎松日誌」「隣人」「試験監督」)

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「山椒魚」は早稲田大学の本科一年のときに書いた。夏休みで帰省中、動物を扱つた習作を七つ書いて、青木南八といふ級友に送つたうちの一つである。関東大震災の年、「幽閉」といふ題で同人雑誌「世紀」に発表し、後に十行あまり書き足して「山椒魚」と改題し「三田文学」に出した。処女作ではないが、私としては初めて活字にした作品である。
「『槌ツァ』と『九郎治ツァン』は喧嘩をして私は用語について煩悶すること」は、私自身の幼少年時代の習性を写したが、「槌ツァ」と「九郎治ツァン」は架空の人物である。全く架空の人物だといふことを念のためここに記したい。…
「二つの話」は終戦直後に書いた。私の疎開中のことで、原稿用紙やインキを手に入れるにも苦労した、原稿を書くとひどく腹が減つた。

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