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信心あらん人は むなしく生死にとどまることなし
――― 一念多念証文20
空過ということは、我々人間の最大の問題であろう。
特に、社会が高齢化してきた今、
これが 誰にも見える形で露呈してきた。
“ 日々 あなたは 周りの人から大変な世話を受けて
やっと その生を繋いでいるが、それでもなお、
自分に生きている意味がある と言いきることができますか?”
この人生を 長らく生きてきた彼らにおいても、
この問いに 答えられる老人が 果して何人いるだろうか?
誰も この問いに なかなか答えきれないということは、
我々人間の根源的な生のあり方を 示している。
一方、自らの時間と労力を費して 老人の世話をしている者は、
″ 一体 私は何をしているのだろう?
私の人生は 親を介護するためにあるのだろうか?”
と、鬱勃として 内に湧き起ってくる疑念に、
恐らく うまく答えられる人は少ない という処にも、
我々人間の根源的な生のあり方が露呈している。
人は、愛欲・名利に狂ったり、
何かに心が痺れていたりしていない限り、
自らの 生きていることの意味を見いだせないものであろう。
二十日鼠のように、
何かを求めて走り続けなければ、
つまり、何かで己が時を埋めなくては堪えられないのである。
その埋めるものは 何であってもよい、
ただただ 己が空虚な時を埋めることで、
やっと生きていられるのが 我々であろう。
この世のさま、かくのごとし。
あれやこれや うんざりする処である。
西に 向かって行くところに、
このわが現実が まさしく東岸となる。
@ 東岸:西岸(阿弥陀仏の浄土)に対して こちらの世界・此岸 西に向わなければ、
西も東もなく、現実は現実のままである。
有人向西(人あって、西に向かう)において はじめて、
東岸の「無人空迥(くぎょう:空しく遙か)の沢」が露わとなるのだ。
善導大師『観経疏〜二河白道』に曰く、
この人、すでに空昿(くうこう)のはるかなる処に至るに
さらに 人物(にんもつ)なし。多く群賊悪獣ありて、この人の
単独なるを見て、競い来たりて この人を殺さんと欲す。
しかして、
この人、死を恐れて 直ちに走りて 西に向かうに、
忽然として この大河を見る
この大河とは 水火二河、貪欲と瞋恚の河である。
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人間というのは、やっかいな「こころ」を持って生きてますよね。
さりとて、「こころない」人間にもなれない。
ただ、持て余すのみ。
2017/4/6(木) 午前 4:16
「何かを求めて走り尽くす」「何かに心が痺れていたり」「何かでおのが時を埋めなくては」、、これらの言葉は実に私によく当てはめられています。自覚もあります。老人たちの介護から「逃れる」のではなくて、その場に自分を埋め込んで、そこに自分の生きる喜び、時を埋める幸せを感じられるようになれば、、対象との関係を好きになれれば、赤子になった老人、人間の汚物をも、皮膚の汚さ、臭さ、相手の心のずるさなどなども、面白いと対せれば、、??? 夫婦の関係や嫌な上司同僚部下でも、似たようなところはあるのです。人間関係の基礎からどう関わり合うのがより良いのか、毎日のように考えています。
2017/4/6(木) 午後 8:10
「水がめ座」さんへ。こんばんわ。
まったく、自分のものでありながら もてあますしかないですね、
心というものは・・・。
人は皆 この心なしでは、廃人になってしまう。この人の心が
鬼ともなれば、仏ともなる・・・。合掌
[ jyo***** ]
2017/4/6(木) 午後 9:49
saidakyoko さんへ。こんばんわ。
私に自由になる時間があれば 何をしたいか? あれもしたい、
これもしたい・・・。いろいろ思うが、いざ自由な時間を得て
何かをし始めると、他の事はできない。あれも これもできる
のではなく、思いに反して、これしかできない・・・。
しかし、これで 結構 満足なんですね。後に 疲れと空しさは
残りますが、思い出が残る・・・。
ただ、他に強いられて、自分の時間を自由にならないとなると、
人間 やはり 不満にならざるを得ない。不満は イヤですから、
現実に順応することで、何とか「それでよいのだ」と思いたい。
(続)
[ jyo***** ]
2017/4/6(木) 午後 10:16
ーーーでも、やはり これは、自分の心を誤魔化している・・・。
自分の心を、鬼の心も 仏の心も、恐れることなく、自己満足
することなく、誤魔化さずに ありのままに見る・・・。
これは、仏さまの智慧をいただいた信心のみが可能なこと
なのでしょうね。信心の見る世界のみが 空しさのない世界
なのでしょう。合掌
[ jyo***** ]
2017/4/6(木) 午後 10:31