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六道輪廻は、仏教における人間観である。
六道:三界(さんがい)とは?
これは、例えば 「大智度論」には、
人中にありて、或いは張家に死し 王家に生まれ、王家に死して
李家に生まる。かくのごとく 閻浮提界を尽して 或は 重ねて
生まれ、異家に生まる。
或は 南閻浮提に死し、西拘耶尼に生ず。閻浮提のごとく 余の
三天下も またかくのごとし。
四天下に死し、四天王天に生れるも また かくのごとし。或は
四天王天に死し、忉利天に生まる。忉利天に死し、余の上四天
に生れるも また かくのごとし。
色界に十八重天あり。無色界に四重天あり。ここに死し、彼処
に生まる。一々みな あまねく かくのごとし。
或は 色界に死し、阿鼻地獄に生まれ、阿鼻地獄中に死し、余の
軽繋地獄に生まれ、軽繋地獄に死して畜生中に生まる。
畜生中に死して 餓鬼道中に生まる。餓鬼道中に死して 或は
人天中に生まる。
かくのごとく 六道に輪廻して 苦楽二報を受け、生死窮まりなし。
胎生 すでに しかなり。余の三生も また かくのごとし。
―――「安楽集」所引
胎生:四生(ししよう)の一
とあるように、
我々は 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道を生まれ変わり
死に変わっているというものである。
私が この世を去って 後の世にも、生きとし生けるものの間を
永遠に 生まれ変わり死に変って、苦と楽を受けていくというのが、
仏教の背後にある人間観であろう。
これは、今日の科学の時代には 一般に 荒唐無稽に思わているが、
果たして 「人は死ねば無になる」というのは 本当だろうか?
仏教は、何も 私という実体があって、それが生まれ変わり
死に変っていると言っているのではない。むしろ、そういう
永続的な輪廻の主体があるということを否定しているのである。
我々は、自分に ”自我or自己がある”と思っている。
西欧の思考は、ルネ・デカルトに限らず、みな この”我あり”を
土台にしているが、 ルネ・デカルト - Wikipedia
仏教は「あなたが思っている自己は 亀毛兎角である」と言う。
我々が”我あり”と思っている我は「幽霊の正体みたり 枯れすすき」
の幽霊だというのである。
輪廻は 何がするのか? これを、仏教は「業」が輪廻するという。
しかし、このことに 今は深入りしない。
死ねば それで終わり、後は 野となれ山となれ。この世に
生きている時だけ良ければよい
――― といった考えが、今日 社会を覆っている。
そこで、こうした考え方に対して、
この六道輪廻の人間観の すごさを指摘してみたい。
まず、輪廻は この世の生だけで終わらない。
現世だけで 事は完結せず、来生にも 責任をもたねばならない
という考え方をしている。
”旅の恥はかき捨て”を許さない。しかも、事の責任を未来の世代
に委ねず、自分の為した事は 自分で刈り取らなくてはならない*
という「自業自得」の考えである。
* これは、当為(しなくてはならない)ではなく、
必然(そうなっている)という意味。
そして、また 私は生まれ変わって、富者にも貧者にもなり、
魚にも虫にもなる。苦で満ちた地獄や、人に使われ 肉を食われる
家畜にも、不平不満の餓鬼にもなる。
これは、レストランで 肉を喰らって舌鼓をうち、その肉の主の
運命に無関心な文明人などとは違って、生きとし生けるもの
への共感、或は 同じ生き物としての運命共同の感覚が背景にある。
さらに、これが最も重要なのだが、
この生で事が完結しないということは、逆に この世の生が
それほど(一生で終われないほど)に 巨大で重い問題を
抱えているということがあるのであろう。
「安楽集」(道綽)には、「正法念経」を引き、
およそ、人、この百一の生を経るに、著楽放逸にして
道を修せず。往福 ようやく尽きて、還りて三途に堕ち、
衆苦を受く。
往福:今までの福徳 三途:三悪道(地獄・餓鬼・畜生)
六道を輪廻して 永遠に苦楽を受けつづけるのは、「著楽放逸
にして 道を修」しないからであると言っている。
幸せを欲し、逸楽に日を送るのでは、生を完結できないのである。
「道を修す」とは、そこに解決すべき重い問題を抱えているから
である。この生が 一生では終われないほど重い問題をもっている
という痛切な 自らの生への畏れが、この六道輪廻の底にある
のであろう。
この巨大で重い問題を、仏教は「無明煩悩」or「罪悪」
or「我執」に見出している。
また、「安楽集」に涅槃経を引いて、
「一劫の中に飲む所の母乳は 四大海水よりも多し。
一劫の中に積む所の身骨は 毘富羅山のごとし。」
かくのごとく、遠劫以来 徒に生死を受け、今日に至りて
なお凡夫の身となる。
なんぞ かって 思量し傷歎してやまざらんや。
1劫:何十里もの岩に、天女が3年に一度天下り、
その薄い羽衣で すっと撫でて また天に還っていく。
そうして、その岩が砂になってしまうまでの時間。
四大海:世界の中心である須弥山の四方にめぐる海
毘富羅山:マガダ国にある山
今日の私は、遠劫以来 代々の祖先たちの生死の果てにある。
その間の一代でも欠ければ、今日の私はない。
その生死は、たくさんの母たちの乳を飲んで 代を重ねてきたし、
代々死して 骸にならなかった者はいない。
それらの祖先たちは、いずれも 徒に 著楽放逸を願い求め、
道を修することなく 生を繰り返して、今日の私に至ったのである。
この現実を見れば、傷歎しないわけにはいかないではないか?!
※ 現代はこの「著楽放逸」を明文化して尊重している。
しかし、「道を修す」を忘れている。
第1条 全ての人は生まれながらにして等しく自由で
独立しており、一定の生来の権利を有している。
それらの権利は、・・・彼らから奪うことはできない。
すなわち、財産を獲得して所有し、幸福と安全を追求
し獲得する手段と共に生命と自由を享受する権利である。
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2016年10月20日
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