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一切衆生、苦を厭い 楽を求め 縛を畏れ 解を求めざるはなし
安楽集第五大門
――― 我々は逸楽を欲し、自由に動き回ることを求める。
しかし、そこに 何か高邁な志で 人生を渡ろうとしているのではない。
私は この程度の 実に低い低いところで日々を送っているもので、
何か己が人生に意味を見出すために生きているわけではない。
これを 「凡夫」という。
つまり、その生に意味を持たない存在が、私であり我々なのだ。
大無量寿経の五悪段に、
その一悪とは、諸天・人民・蠕動の類、衆悪を為さんと欲す。
皆 然らざるはなし。
と。 @ 蠕動(ねんどう:地を這う虫)
つまり、
我々は その営みにおいて、善を為そうとしているのではなく、
「衆悪を為さんと欲」しているのである。
この句は、世に流布する 耳に聞きよい 人間信頼の観念を
頭から否定しているのである。
我々は皆、悪を為そうとして 相せめぎ合っており、
本当に善を為すことを知らない。
” 世間から人々から悪とせられなければ、いかなる事を為しても
よいorかまわない ” とするのが、我々のサガである。
つまり、事の善悪を決めるのは、
世間の常識であり、時代の思潮であり、国家の法律であって、
善悪はすべて 人間の間に存在するだけの人工的な観念である。
釈迦は、菩提樹下で、世の善悪すべてを「虚偽・顛倒」と見た。
そこにある我らの姿を 無明煩悩の凡夫という。
イイトコが 丸でないものなのだ。
観無量寿経では、
息子・阿闍世(あじゃせ)のクーデターで、夫の頻婆娑羅王が餓死し、
自身は牢に閉じ込められた王妃・韋提希(いだいけ)が、
お釈迦さまの前で さんざん泣き叫んだ後に、
我 まさに往生すべし。閻浮提・濁悪世をば楽(ねが)わざるなり。
この濁悪処は、地獄・餓鬼・畜生 盈満(ようまん)し、
不善の聚(ともがら)多し。
願わくは、我 未来 悪声を聞かず、悪人を見ざらん。
・・・
ただ願わくは 仏日、我を教えて 清浄業処を観ぜしめたまえ。
と。
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2016年11月08日
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