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混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

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他を利するとは?


 悩みのない人が この世にいるだろうか?
 みな それぞれに それぞれの疼くような悩みを
 胸に抱いて生きている。


 しかし、一方、

  行住坐臥 無問昼夜 常得安穏
  (行住坐臥 昼夜を問うことなく 常に安穏を得)

 ということを、心に願わない者は 一人もいない。






 足腰が立たなくなり、ベッドの上で、
 身の回りの何から何まで すべて
 他人のお世話にならなくてはならなくなった時、

 その世話をする者に、
 ”お前は 俺or私の世話をするのが当り前だ”
 と、平然と言える者がいたら、それは悪鬼である。

 他人の役に立つこと
 ・他人を支えることができなくなり、
 他人のお世話になるしか生きられなくなった者が、

 それでも 生きている意義を見出し得ることが、
 つまり、他の役に立つことが、できるだろうか?
 いわゆる 利他の行ができるだろうか?



   今日、多くの こうした老人は、
   こう問うことをあきらめ、
   この問いを 胸の奥に押し殺して、

   わが子に親孝行を強いるか、

       ”子は親の面倒を見るのが当然”という観念は、
       わが身を すべて預けていることが
       どれほど大きな負担をわが子に負わせているか
       といったことを 深刻に感じないで済ませられる。

   金を払って 自分の世話をさせるか、

       その者は わが世話で その暮しを成り立たせている
             のだから、自分は 人の役に立っている、
       今なお  自分は ”生きる意義を失っていない”として、
       オンブにダッコされる痛みを感じないで済ませられる。

   或は、社会制度に わが事態の責任を転嫁するか、

       ”こういう制度だから、他の世話になっているのだ”
       と、他人に わが身の世話をさせ、若い世代の金で
       今の自分が支えられているのを制度のセイにして、
       厳しい現実を 自らに担わずに済ませている。

   といった極めて安易な考えで、
   残り少ない人生の日々を送っている。

   ”もう齢を取ったから難しいことはコラえてくれ”と・・・。

   こうした老人は もはや生きている意味がない。
   否、もはや 死んだも同然である。


   親鸞は、

    弥陀の本願には 少善悪の人を選ばれず、
    ただ信心を要(よう)とすと知るべし
                         歎異抄
   と語ったという。


                                               合掌


 
   

  





 

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