|
己が逸楽を貪るべく 他人の時間と労力を使う・・・。
これを免れている高齢者は少ないだろう。
貪瞋痴の三毒は、凡夫の地体だからである。
この時、使われている者は どういう思いを抱いて、
己が時間と労力を 高齢者に費やしているだろうか?
何から何まで 他人の世話を受けなければ、
生きておれない高齢者の 倫理感が問われているのだ。
単に 人権とか 親孝行・敬老などの観念や 人としての哀れみで
乗り越えられるほど、この事態は 簡単なものではない。
一方、高齢者の生を支える者たちも、
必ずしも 純な心で 世話をしているわけではなく、
その心の内に さまざまな愛憎や利害打算を免れない。
残り少ない日々を逸楽に耽るだけの高齢者。
一方、この逸楽を支えるべく、己の時間と労力を費やす介護者。
両者のアンバランスは、尋常なものではない。
ここに、「生の無意味」という巨大な妖怪が立ち現れる。
高齢者の介護 と 幼少年の養育とは、
どちらも たいへんな時間と労力を費やすものだが、
その精神的な負担において 大きく異なる。
後者は、時とともに成長し 身心共に しっかりしてくるが、
前者は、だんだんと身体の機能が衰えて 不全となり、
精神活動が鈍麻していく。
また、
幼少年は 始めから白紙の状態で、
自分を支える者に、全身で信頼し尊敬の念をもって対するが、
高齢者は その長い人生経験を背負いながら、
かっては 自分の庇護下にあった者や
自分より 人生経験のない若い者たちの世話になる。
そこには、人生の先輩としての矜持があり、
長く その中に もまれてきた世間への種々の慮り、
そして 自分∧自分の物に対する深い執着がある。
高齢者は 過去に執着し、幼少年は 未来に憧れている。
人間の過去は すでに作った悪業を集積した蔵であり、
人間の未来は 未だ作らぬ悪業の場である。
我々人間は みな、この悲劇的な生を受けている。
我々は 「生きている価値のない」存在である。
これを 親鸞は、
いし(石) かわら(瓦) つぶて(礫)のごとくなる我らなり
と言った。
それでは、我々は ついに
生きている価値のない存在として生き そして 死んでいくのか?
親鸞は さらに、
「能令瓦礫変成金」という言葉を釈して、
如来の本願を信ずれば、瓦・礫のごとくなる我らを
金(こがね)にかえなさしむる
と。
金(こがね)は、この世で「最高の価値」あるものである。
ふつうでは考えられない 常識を逸脱したことが、
「信心」によって わが身の上に成就する・・・。
この信心は、今日の日常語でいうと、
ありがとうございます。
もうしわけありません。
の2つの言葉であろう。
これが 心の底から出る時、
我々は「生きている価値」を得る。
そして、この2つの言葉を 一言で言ったのが、
なむあみだぶつ(南無阿弥陀仏)
なのであった。
沈む太陽に向って合掌する老人の
茜色に染まった 襞深い顔。
やがて闇に包まれる前の 静寂なひと時に、
なみあみだぶつ と合掌する姿が、
老人には ふさわしい。
|
過去の投稿日別表示
-
詳細
全1ページ
[1]
コメント(2)
全1ページ
[1]


