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貪・瞋・痴三毒煩悩を地体とし、
うそ・いつわりを好んで、
やっと自分を支えているのが 私である。
このような者が
共同体全体に 主体的に責任を負う
ということはあり得ないことである。
共同体が危険に曝されても、
自分ひとり 助かろうとするのが、
私なのだ。
共同体のために 自らを犠牲にした者を
顕彰し 讃えるのは、
必ずしも単純な動機ではないが、
このことによって、
人間の この本性が無視されてよいものではない。
なぜなら、
共同体に身を捧げた人を顕彰しても、
自らは 名利を求めて 同胞と争闘する人々を
私は多く見るからだ。
我々は、己のために犠牲になるものを欲し、
これを必要としている。
そして、
この鬼のサガを 自他に覆い隠すために、
ありとあらゆる事をしてきたし、これからもする。
文明や国家の形成の 主要動機が ここにある。
たとえば、
自分や家族が交通事故に遭って
死傷する可能性も 十分あるのだが、
わが身の上には、そうした事は起らないと思って、
自動車の利便性のために、
車社会を肯定し受容する・・・。
こうした矛盾した心と 同じことが、
文明や国家に対しても動いている。
また逆に、
文明や国家を容認する以上、
膨大な数の ″自動車事故による死傷者という人身御供”
を肯定している自分に 何の違和感も覚えないだろう。
ふと気づいて見れば、
この文明や国家は、巨大な魔窟なのであった。
仏法は、これを「娑婆」と言い 「三悪道」と言う。
法蔵菩薩は、その誓願を発すに先立って、
願はくば 仏、・・・ 我をして 世において、
速やかに正覚を成じ、
もろもろの生死勤苦(ごんく)の本(もと)を抜かしめたまえ
――― 大無量寿経
と表明した。
人は、この法蔵の志願に貫かれて 始めて、
この世に生まれてきた意味を満足するのだ。
社会の地位や名声、あるいは 国の勲章を得て、
満足できるほど、
人間というものは 浅薄なものではない。
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2017年03月01日
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