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目連救母の精神史
中国文明における母殺しの彼岸 六 おわりに
かつて、ジュリア・クリステヴァは文化大革命のただ中の中国を 訪れて、欧州や日本などより はるかに峻厳な父権的な権力によって
貫かれているようにみえる この東洋の社会の中に、母性的なもの
への渇望が潜んでいることを確信した。
世界を創造したとされる女媧の図像や慈愛に満ちた表情の観音菩薩
への信仰、李清照をはじめとする女たちの繊細で優美な詩詞、あるいは
女体から生命力を得ようとする道師たちの性愛術、そして 文革を
押し進める力強い女たち、そのような様々な女性的な形象のなかに、
「 おしなべて中国の歴史全体に伴っていた母への追憶の、あの永続性 」
を見て取り、そこに 母性的なものへの渇望だけではなく、さらには ある種の母権的な力の秘かな横溢すらも感じた。
しかしながら、中国文明の裏側に育った、その母性的・母権的なもの
とは、観音信仰に美しく理想化されているような、女たちや子どもたち
を守ってくれるような、やさしく生産的なものばかりではなく、むしろ
繰り返し殺されなければならないほどに、性愛的でもある攻撃性を
生み出すものでもあって、その背後には、国家・家族システムのなかに
閉じ込められた、母子関係におけるルサンチマンが蟠っていたのだ、
と思われる。
〈目連救母〉とは、まさに そのような母へのルサンチマンのドラマ であり、国家化=父権化の徹底にともなって強化された超自我をなだめ
ながら、母への復讐を このうえなく残忍に遂行しようとした、闇の精神
の物語なのである。
だが、〈目連救母〉の長い発展のなかで成し遂げられているのは、 母へのルサンチマンだとか母からの自立などといった、西洋的とも
いえよう精神的成長の物語に留まるものではない。むしろ、母への共感
を中心とする人間的な欲望の大胆な肯定であり,それは超自我的なもの、
さらにその背景にある国家的な力からの相対的な自立と連関するもの
である。
ますます国家化しシステム化していく社会のなかで、母を想像的に
殺した上で 母との「和解」のかたちを示したことは 古今に稀な物語的
達成であったと思われる。
むろん、このような母への共感と欲望の肯定の志向は、〈目連救母〉
の物語としての内在的発展というだけではなく、より大きな精神史的な変化の潮流の中にあるものとしても理解するべきである。
四大小説とも総称される『三国志』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』
をはじめ、宋・明代の中国では 秩序転覆的な物語が生まれ広く伝承
されており、その中には、皇帝を弑逆する物語すら存在する。
そうしたことから、この段階で中国文明においては,表向きはますます
堅固な家父長制的な社会でありながら、人々の価値意識や想像力の中
では すでに古い父権的な権力は空洞化し、むしろ 異性間や親子間など
親密な人同士の関係の中で 個々の人間の欲望を尊重する文化、しかし
まだ十分には言語化されておらず物語的・演劇的に表現されるに留まる
文化的傾向が生まれつつあったのだといえる。
そうした中で、「母」に対しても、ルサンチマン的に恨みを晴らす
段階を超えて、脱理想的で現実的な肯定のヴィジョンが生まれてくる。
それは例えば、ほぼ同じ時代に盛行する〈白蛇伝〉の発展の中にも
みられるのであって、白蛇は、不気味な化物=女から貞淑な妻、さらに
平凡な母へと変容し、主人公(視点人物)も、白蛇に騙される男から、
白蛇=白素貞へと転換していく。 白娘子 - Wikipedia
あるいは、〈七夕伝説〉にあっても、牽牛と織女の物語だけではなく、
次第に、母の象徴である牛と牛郎の物語へと変化し、さらに織女と
その息子との物語になっていく。
近世以降の〈目連救母〉は、こうした中国文明における母への肯定的
な感受性の広がりの中で、母へのより深い ルサンチマン の表現をも含めて
展開したのであって、こうした物語的な達成の中に、欧州における
超自我的な人間の力の理想化とも、日本における母息子間の甘えの伝統
とも重なりながらも異なる、中国文明における、ありのままの人間的
欲望を肯定し受け入れる社会的・精神的な包摂の志向を見出すことが
できるだろう。
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2018年10月04日
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