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人は 自分を高く買っている。
自分が ”まったく詰らない者”とは、
ふつう思わないし、思えない。
我々は みな、
ウソでも何でも、
自分を何か大した者・評価に値する者と思いたい。
一方で、私は 他の者と比べて、
色々と劣る所があるのを認めざるを得ず、
”社会的に何か評価され得る”ほどの者ではないと思っている。
世間のごくふつうの者で、
特別 悪い事もしないが、
何か りっぱな事もできない者だと・・・。
そして、
その上で、我々は 互いに、
埒もない愛欲・名利を争っているのだ。
我々は、ほんとうに 誰も彼も、
自分の存在理由・存在意義の喪失に、
あるいは その欠落に苦しんでいる。
そして、何でもよいから、
自分を支えてくれるモノに、
しがみついて離れようとはしない。
自らの存在理由を 外から与えられ、
他に支えられなくては、
自分ひとりで立つことができないのが、我々である。
しかるに、釈迦仏は、
生れて地に堕ち、すなわち 行くこと 七歩。
右手を挙げて 住して言わく。
天上天下唯我独尊
三界は 皆 苦なり。何ぞ楽しむべきものぞ。
――――― 瑞応経上
驚くべきことに、
生まれてすぐ 自分一人で立ったのである。
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大乗仏教
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和朝 愚禿釈の親鸞が「正信偈」の文
・・・
「本願名号正定業(ほんがんみょうごうしょうじょうごう)」というは
選択(せんじゃく)本願の行(ぎょう)というなり。
「至心信楽願為因(ししんしんぎょうがん いいん)」というは
弥陀如来回向の真実信心なり。
この信心を阿耨菩提(あのくぼだい)の因とすべしとなり。
「成等覚証大涅槃(じょうとうがく しょうだいねはん)」というは
成等覚というは、正定聚(しょうじょうじゅ)の位なり。この位を
龍樹菩薩は 「即時入必定(そくじにゅうひつじょう)」とのたまえり。
曇鸞和尚は 「入正定聚之数」とおしえたまえり。・・・
証大涅槃というは、「必至滅度の願成就」の故に 必ず大般涅槃
(だいはつねはん)をさとると知るべし。
――― 尊号真像銘文
「必ず大般涅槃をさとると知るべし」と。
真実信心の人は、成等覚ie. 正定聚(=不退転)の数に入るゆえに。
逆に言えば、信心を獲ないかぎり、
菩提に至る(仏に成る)ことができないのだ。
つまり、
膨大な数の、ほとんどすべての者は、賢も愚も 男も女も、
死して なお迷いの世界に流転していることになる。
あるいは、迷妄の中に消滅していくのだ。
我々は、この世に生まれてきたこと自体、罪業の果報なのである。
ここに、何か意味ある事を成就するという考えは 倒錯なのだ。
ここで 何を為そうとも、それは みな 迷いの所作である。
仲間からは いかに讃えられても、それは 丁度、
オリンピックの100Mで記録を更新するようなもので、
仲間内だけのマスターベーションに過ぎなかろう。
彼or彼女は チーターの速さに及ぶべくもないのだ。
これが、釈尊が菩提樹下で見た 世間のすがたであったろう。
では、釈迦は なぜ、この世に出られたのか?
釈迦如来 世に興出したまうゆえんは、
群生を拯(すく)い恵むに 真実の利をもってせんと欲してなり
――― 如来所以興出於世 欲拯群生恵以真実之利 (大無量寿経)
真実の利(益)とは、弥陀の本願海である。
つまり、「五濁悪時 群生海」たる我々は
如来 如実の言を信ずることが、
ただ一つ 意味あることだったのである。
私に いかになくてはならない大事な事と思われても、
それらは みな、迷妄の所作、地獄業なのだ。
合掌
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たとえ、身を諸々の苦毒の中におくとも、
わが行は 精進して 忍びて
ついに悔いざらん
―――― 大無量寿経「讃仏偈」
☝ 法蔵菩薩の歌
自分の身の事だけで精一杯、 他人を配慮するに十分でない、
いわゆる 名利の奴・己が逸楽のみ耽る者のために、
喜んで 自分の時間とイノチを捧げる者はいない。
自己中心で すべてを考え 言動している者のために、
たとえ、その者の安穏のためにと思ってやっても、
それは、かの者の貪欲に呑み込まれるだけのことである。
このため、世間の常識は、
”他人のためにするのは、それが 己のためである場合に限る″
ということになるのだ。
この原則を逸脱する者は、
”世間知らず″ とか ”気違い”であるとされるのも
ごく当たり前のことであろう。
これが世間知である。
ところが、愚者・悪人のために
己がイノチを捧げる者があった。
それが 大乗仏教の菩薩であり、
その第一人者が、法蔵菩薩であった。
自分の思いの中に 他人を縛り付ける or
他人の思いの中に 自ら呪縛されるのが、
世間の恩愛である。
そこでは、
自分の手を 相手から離すということができない。
これが凡夫の世界、いわゆる世間である。
まさに知るべし。我 五濁悪世において、
この難事を行じ、
阿耨多羅三藐三菩提を得て、
一切世間のために、この難信の法を説く。
これを甚難となす。
―――― 仏説阿弥陀経
@ 我とは釈尊 |
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仏は、衆生の悪を罰する存在ではなく、
ただ これを慈悲する存在である。
この世で理想を実現すべきならば、
悪は、これを探し出し 摘出して 排除されねばならない。
しかし、
仏法の考え方は 自業自得で、悪因悪果である。
悪を為せば、それは必然的に悪果を招来させる。
したがって、
人間我々が悪を見出して それを除くことは徒労となる。
正しく悪を悪と見、善を善と見るものは、
仏のほかにはない。
正しく悪を悪と見るゆえに、
仏は これを慈悲することができるのである。
この世は 生死煩悩海であり、それ以上でも以下でもない。
どこまでいっても 生死の苦海であり、
ここに 理想を形として実現するということは、
はじめから考えられないことである。
つまり、“正義は この世に実現できない”ということが、
仏教徒の認識なのだ。
いかに国家の中枢が腐っていても 何も驚くようなことではなく、
彼らのために災厄を蒙ろうとも 何も不条理ではない。
ありうべきことが 実現したにすぎないのだ。
彼らに正義を要求したり、
彼らの悪に報いを求めようとすること自体が、
むしろ この世の道理に逆らったことであろう。
この世の悪は、
ただ仏のみ 正しく悪となし、
正しく これに対処したまうからである。
この世の悪は、
人間我々が これを 正しく見出して、
これを除き、或は罰することができるものではないのだ。
私は、我々人間は、
この世に正義or善を実現させることができない。
転悪成善は、仏のお仕事なのだ。
安楽国、いわゆる理想国家は、
人間我々が 努力して造るものではない。
これは、すでに 衆生我々のために 造られたものであり、
常に 存在しているものである。
これが、「観無量寿経」欣浄縁において、
韋提希夫人と仏の問答の前提になっていることである。
つまり、仏教徒における理想国家は、
近代国民国家とは まったく違っており、
我々が 悪を排して それを造るものではなく、
自らの罪を滅して そこに生まれるものなのだ。
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それ、真実の信楽(しんぎょう)を案ずるに、
信楽に 一念あり。一念とは、これ
信楽開発(かいほつ)の時剋の極促を顕し、
広大難思の慶心を彰(あらわ)すなり。
――――― 親鸞 「教行信証」信巻末
※ 信楽 = 信心 時剋 = 時刻
心というものは、
刹那に現象するもので、
それ以上でも以下でもない。
刹那は 永遠に通じているゆえに。
もし 持続したものを
心と言うのであれば、
心は、この世で イノチのないものとなろう。
例えば、習慣・習俗・前例主義、固定観念、性格、我執 etc。
刹那に現象した心のみが
生きた心であり、
永遠に通じる心であろう。
もし、“この心が持続しなければ
本当の心ではない” と言えば、
それは この世の欲得の思い or 我執が言うのである。
この刹那は、
我々にとっては
忽ち消え去る 頼りなく はかないものだが、
この刹那に満足する心が
「信心」というものであろう。
刹那にこそ、真実というものは現成するのだ。
しかし、常なるものは、
この世には 何もない。
すべては 諸行無常なるがゆえに。
常なるものは、
此岸にはなく、彼岸にある。
それは、仏の世界にあって、
この娑婆にはないのだ。
この世の いかなる人間も死ぬし、
いかなる国家も亡びる。
近代科学技術文明は もちろん どんな文明も滅するし、
人類も滅びる時が やがてやってくる。
我々における真実は、
刹那における真実のみであって、
それ以外に真実はない。
他に 真実の現成する 時も場所もないのだ。
合掌
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