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混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

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 原子爆弾による罹災を、いまだに
 「何の罪もない者が・・・」
 と被害者意識で語る者が 少なからず いる。


 これほどの欺瞞があろうか!


 自分は 日本人として生まれ、
 その日本が 大日本帝国として、米中等と戦争をしていた。
 そして その結果、ヒロシマ・ナガサキがあった。

 この因果関係を切断して、
 自分や罹災者だけを 都合よく
 無垢の善人に仕立てあげているのだ。


 自分が日本人として生まれたことは、
 大日本帝国の戦争遂行に加担せずには済まない。
 つまり、米中の民の敵とならざるをえなかったのだ。


 もし、かの戦争に 公然と異議申し立てをしたり、
 戦争遂行に動員されることを拒んでいたなら、
 幾ばくか ”何の罪もない者が・・・” と言えるかもしれない。

 しかし それでも、この惨禍は 
 ”日本人として受けたものだ”
 という事実は、なお厳然として残るのだ。



 つまり、我々は 
 ”日本人の宿業として これを受けた”
 という事実を無視することはできない。

 

 昭和天皇はじめ、戦争遂行に直接 責任のある者や
 積極的に これに加担した者たちはいた。
 しかし、彼らを生み出したのは、日本人の宿業なのである。

 ”この宿業をどうすべきか” という問題は、
 敗戦後の日本人は 自らに背負わなかったけれど、
 ゆるがせにすべきではないことではあろうが・・・。


 敗戦および 大日本帝国の崩壊は、
 明治以来 日本人が選択した道・文明開化の結末だった。
 この道を選んだということは、原爆の惨禍を選んだということだ。

 明治維新を肯定し、なおかつ 原爆に”何の罪もない者が・・・”と、
 違和感なく言える者の 論理の土台自体が、
 本当は もっとも罪深いのではないのか?



             2017.08.07 報道するラジオ
            大阪に投下された“模擬原爆”とは
             
            「模擬原爆」は、広島・長崎に原子爆弾を落とす前後に、
               米軍が試験的に投下した 同じ形状・重さの爆弾です。
               原子爆弾を投下した場合、どのように落下するのかの
               データ収集や、投下後に爆撃機がすぐに旋回する訓練を
               するためだったと言われています。
                この「模擬原爆」は全国30都市に計49発落とされ、
               400人以上の方が亡くなりました。


尊敬


 午後7時30分、室温33℃。蒸し暑い。
 クーラーはない。
 
 私のこうした感覚、特に 快くない身体の感覚や、
 怒り、悲しみ、焦り、不安、恐れ、憂鬱などの感情に、

 始終 晒され、あるいは吞まれて、
 日を送っているのである。

 平穏で寂静な感覚や感情の時は 少なく、
 私の思考も 曖昧で混濁しているのを常とする。


 つまり、私の知情意は、
 たいへんお粗末なもので始終しているのである。



 このような者を、
 誰か他の人で 尊敬する者があるだろうか?

 もし間違って、この者を信頼し信用すれば、
 その者は 愚か者と言わざるを得ないだろう。

 あるいは、何か 
 よからぬ企(たくら)みをもった者であろうと・・・。



人生空過


   信心あらん人は むなしく生死にとどまることなし
                  ――― 一念多念証文20
  

  空過ということは、我々人間の最大の問題であろう。

  特に、社会が高齢化してきた今、
  これが 誰にも見える形で露呈してきた。


  “ 日々 あなたは 周りの人から大変な世話を受けて 
  やっと その生を繋いでいるが、それでもなお、
  自分に生きている意味がある と言いきることができますか?”

  この人生を 長らく生きてきた彼らにおいても、
  この問いに 答えられる老人が 果して何人いるだろうか?

  誰も この問いに なかなか答えきれないということは、
  我々人間の根源的な生のあり方を 示している。


  一方、自らの時間と労力を費して 老人の世話をしている者は、
  ″ 一体 私は何をしているのだろう?
  私の人生は 親を介護するためにあるのだろうか?”

  と、鬱勃として 内に湧き起ってくる疑念に、
  恐らく うまく答えられる人は少ない という処にも、
  我々人間の根源的な生のあり方が露呈している。



  人は、愛欲・名利に狂ったり、     
  何かに心が痺れていたりしていない限り、
  自らの 生きていることの意味を見いだせないものであろう。

  二十日鼠のように、
  何かを求めて走り続けなければ、
  つまり、何かで己が時を埋めなくては堪えられないのである。

  その埋めるものは 何であってもよい、
  ただただ 己が空虚な時を埋めることで、
  やっと生きていられるのが 我々であろう。



  この世のさま、かくのごとし。
  あれやこれや うんざりする処である。

  西に 向かって行くところに、
  このわが現実が まさしく東岸となる。
         @ 東岸:西岸(阿弥陀仏の浄土)に対して こちらの世界・此岸
  西に向わなければ、
  西も東もなく、現実は現実のままである。

  有人向西(人あって、西に向かう)において はじめて、
  東岸の「無人空迥くぎょう:空しく遙かの沢」が露わとなるのだ。

  善導大師『観経疏〜二河白道』に曰く、
   この人、すでに空昿(くうこう)のはるかなる処に至るに
   さらに 人物(にんもつ)なし。多く群賊悪獣ありて、この人の
   単独なるを見て、競い来たりて この人を殺さんと欲す。


  しかして、

   この人、死を恐れて 直ちに走りて 西に向かうに、
   忽然として この大河を見る

  この大河とは 水火二河、貪欲と瞋恚の河である。
             



  
  

魔窟



  貪・瞋・痴三毒煩悩を地体とし、
  うそ・いつわりを好んで、
  やっと自分を支えているのが 私である。
                @ 三毒 - Wikipedia
  このような者が
  共同体全体に 主体的に責任を負う
  ということはあり得ないことである。

  共同体が危険に曝されても、
  自分ひとり 助かろうとするのが、
  私なのだ。


  
  共同体のために 自らを犠牲にした者を
  顕彰し 讃えるのは、
  必ずしも単純な動機ではないが、

  このことによって、
  人間の この本性が無視されてよいものではない。
  なぜなら、

  共同体に身を捧げた人を顕彰しても、
  自らは 名利を求めて 同胞と争闘する人々を
  私は多く見るからだ。



  我々は、己のために犠牲になるものを欲し、
  これを必要としている。
  そして、

  この鬼のサガを 自他に覆い隠すために、
  ありとあらゆる事をしてきたし、これからもする。
  文明や国家の形成の 主要動機が ここにある。

     たとえば、
     自分や家族が交通事故に遭って
     死傷する可能性も 十分あるのだが、

     わが身の上には、そうした事は起らないと思って、
     自動車の利便性のために、
     車社会を肯定し受容する・・・。

     こうした矛盾した心と 同じことが、
     文明や国家に対しても動いている。
     また逆に、

     文明や国家を容認する以上、
     膨大な数の ″自動車事故による死傷者という人身御供”
     を肯定している自分に 何の違和感も覚えないだろう。


 ふと気づいて見れば、
 この文明や国家は、巨大な魔窟なのであった。
 仏法は、これを「娑婆」と言い 「三悪道」と言う。
            @三悪趣 - Wikipedia
 法蔵菩薩は、その誓願を発すに先立って、

   願はくば 仏、・・・ 我をして 世において、
   速やかに正覚を成じ、
   もろもろの生死勤苦(ごんく)の本(もと)を抜かしめたまえ
                    ――― 大無量寿経

 と表明した。
 人は、この法蔵の志願に貫かれて 始めて、
 この世に生まれてきた意味を満足するのだ。

 社会の地位や名声、あるいは 国の勲章を得て、
 満足できるほど、
 人間というものは 浅薄なものではない。



  

人間存在の欠陥



  太古以来 人間は代々、愛欲・名利煩悩そのものを生きてきた。
  これで動き、これで生き これで死んでいった。
                    名利(ミョウリ)とは - コトバンク
  こうしたわが身を 少しも問題とは思わないで・・・。

  これを 自他に押し通して 少しも恥じず、
  むしろ、これを名誉とすら思い、

  自らが世を暗黒にし、
  悲惨を巻き起こしていることを知らず、

  したがって、己が生に、
  少しも 罪悪感をもたない・・・。

  これが、我々人間というものだ。


       私は、これを「われわれ」の世界に身を置いて見てはならない。
       「われ」一人の世界で、この人間の現実を見なくては、見る意味がない。
       私一人で、この現実に 真正面から対峙すべきなのだ。
       これを、「われわれ」の世界(世間の常識)で見れば、これは
       その場限りの 単なるグチになってしまう。



  

  この一念帰命の信心は 凡夫自力の迷心にあらず、
  如来清浄本願の智心なり  ――― 存覚「浄土真要抄」
  

 “私の思いと思うことは みな 凡夫自力の迷心である”
 ということを、私は ハッキリ自覚できない。
 何故なら、この心に非ざる 一念帰命の信心が成就していない故に。

 すなわち、三世十方 挙げて 大千応感動の
 如来清浄本願の智心を疑惑し、
 これを無いことにしている故に。
              三世:過去・現在・未来
              十方:東西南北、南東・南西・北西・北東、上下
              大千:三千大千世界、宇宙全体のこと

 この自力迷妄の心・顛倒(てんどう)の心は深い。
 とても チョットやソットでは ビクともしない。


 人類は、重い欠陥をもって この世に発生した。
 その欠陥とは、
 大脳前頭葉の肥大化、つまり知性をもったことにあると言われる。
                   ※ インテリの非人間性  武田邦彦
 しかし、仏法は、
 この知性が、自力我執によって汚染されていることに、
 人類の、つまり あの人この人の存在の欠陥を見出す。
               我執 - Wikipedia
                 末那識我癡・我見・我慢・我愛
 そして、さらに その底に、
 仏智疑惑を見出した。
 これが、我々の悲惨と苦悩の根本原因であると・・・。


         現代西欧文明は、
         17世紀 ルネ・デカルトの「われ思う故に我あり」以来、
         人間存在の致命的な欠陥である 知性の上に成り立っている。
                        ルネ・デカルト - Wikipedia
         この文明が基礎としている知性には、
         我執(我癡・我見・我慢・我愛)が張り付いていて、
         その底には、仏智疑惑 つまり 如来無視が横たわっている。
         
         したがって、今日 高度な教育を受けた人ほど、
         社会に大きな害悪をもたらす者となっているのは 
         何ら不思議ではなく、当然の結果なのである。



          ※『未来展望を暗闇にする進歩信仰』西部邁ゼミナール
            〜 現代アメリカ―近代主義のモンスターなのか 〜
                   伊藤貫〔ワシントンD.C.在住〕
            https://www.youtube.com/watch?v=o6eM7ETbU7Q 
         
               




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