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第一篇 純粋経験 第一章 純粋経験 第一段落(要約):純粋経験の定義 純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なるものである。 真の純粋経験はなんらの意味も無い、事実そのままの現在意識あるのみである。 [考察] 純粋経験とは私が対象を認識していると言う自覚のない状態である。ここで純粋とは思考が差し込まれないという意味である。主客未分の状態のことである。「私が赤い花を見ている」という自覚はなくただ「赤」の経験である。「私が」といった段階すでに思考が差し込まれているのである。 純粋経験でない意識とは、例えば「意識の流れを反省的思惟によって中断された意識」である。 第二段落(要約):純粋経験の例 感覚、知覚、記憶、抽象的概念、情意などが純粋経験である。 [考察]
感覚は五感による対象認識であるが、それは真実在を認識したものであると断定できない。五感が対象から刺激されてできた心像が正しい認識かどうかは分からない。 この時期の西田は純粋経験が唯一の実在であると主張したがっているが、それには無理がある。というのは、反省的思惟によって、中断された意識をも「純粋経験」と主張しているが、それは、純粋経験でないものの例であって、全てを純粋経験とは言えない。実際後に「自覚における直観と反省」という著作で、純粋経験と反省は区別されている。 |
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「善の研究」は1870年生まれの西田幾多郎の最初の著作です。東洋と西洋がぶつかった明治時代の哲学です。西田は西洋哲学と東洋哲学を止揚した偉大な哲学者です。世界的評価もこれから上がっていくものと私は考えています。
2008/8/20(水) 午後 9:50 [ jyu*do*3104 ]
西田幾多郎さんについて教えてくれて、ありがとうございます。
2008/10/19(日) 午前 10:44 [ カール(カヲル32) ]
訪問ありがとうございます。西田幾多郎の処女作「善の研究」は岩波文庫から出ていますが最近小坂国継の注釈・解説つきで講談社学術文庫からでています。
私は神田の古本屋で西田幾多郎全集を安く購入しました。今も新しく全集が刊行されています。「善の研究」を6年ぶりに読み返しましたが以前より深く理解できるようになっています。
2008/10/19(日) 午後 5:05 [ jyu*do*3104 ]
論理と言えば自同率、矛盾律、排中立がアリストテレス以来常識的なものになっていますが、西田はそれを超えています。観念をモノ的にはには捉えられないとして、別の思考原理「場所の論理」や「絶対矛盾的自己同一」という弁証法を発見しています。
私は精神と物質の統一理論を構築するためには西田哲学を不可欠なものと考えています。
2008/10/19(日) 午後 5:13 [ jyu*do*3104 ]
はじめまして。初めてコメントします。
西田幾多郎の『善の研究』は、学生のころから、何度も読み返してみましたが、そこで述べられている「純粋経験」とは、禅仏教の境地を西洋的学の言葉を用いて記されているということが、少しずつ分かって来たような気がしました。
主客身分の境地とは、有と無とが排除されたもの(非有非無)であり、具体的に言えば、西田の「純粋経験」とは、仏教で言うところの「空」「縁起」「中道」と同一のものであると解釈してもいいのかなと思ったりしています。
そして、『私は精神と物質の統一理論を構築するためには西田哲学を不可欠なものと考えています。』と言われることについて、全く同感です。
2009/2/5(木) 午後 9:36 [ dyh ]