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純粋理性と純粋経験 (1)はじめに 認識の源泉は宗教における信仰以外に、経験と理性に分かれた。認識の源泉が経験にあるという考えは、ベーコン、ロック、バークリー、ヒュームと続く。これらは、イギリス経験論と呼ばれる。 一方、認識の源泉は先天的理性にあるという合理主義的見解もある。合理主義はデカルト、ライプニッツ、ヴォルフらがその代表である。 (2)純粋理性 カントは一切の経験を抜きにした理性を想定し、それを純粋理性と呼び、それの及ぶ範囲を考察した。その結果理性には限界があり、神や霊魂は理性では認識できないと結論した。 (3)純粋経験 一方西田幾多郎は、一切の思考を排除した経験を想定し、それを純粋経験と呼んだ。純粋経験は、一切の思考を排除した経験であり、その結果「私が赤い花を見ている」というのはすでに純粋経験ではなく、ただ「赤」という経験であり、「私が」とか「花が」というのはすでに思考が働いている。 純粋経験にはレベルがあり、それは主客合一の経験であり、嬰児の混沌とした主客未分の状態から宗教的天才の梵我一如の主客合一までを純粋経験と考えている。 「我々の真の自己は宇宙の本体である」と西田が言うように、カントの不可知論と違って、神を対象として認識するのではなく、自己のうちに神を認識できると考えているのである。 (4)弁証法 カントは神は認識できないと言った。他方西田は純粋経験から神と合一できるといった。嬰児から天才まで色々なレベルで純粋経験があり、最終的な高い段階において神を認識できるといったのである。 日常生活の意識から真理まで段階的に発展する過程をヘーゲルは弁証法と呼んだ。ヘーゲルの最終的境地は絶対精神(神)との合一である。 (5)現代の課題
現代科学は唯物論である。その立場からすれば西田の純粋経験や、ヘーゲルの弁証法的発展は脳内妄想といわれるかもしれない。認識論における脳の役割を明確に位置づける必要があると思う。そこら辺を今後考察してみたいと思う。 |
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この世界の成り立ちと仕組み=天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働き=ヒトの心の働きの中身=認識論(悟りの体験/アフォーダンス/自然科学の方法/言葉の役割り)=ヒトの生き方の原理=潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法=私達の日々の生。
一般法則論
2008/8/23(土) 午後 4:55 [ 一般法則論者 ]
なるほど。西田・カント・ヘーゲルの差がわかりやすいですね。
私はカントには心情的に同情してしまっているので(それは正しいことかどうかわかりませんが
(^^)、カントは、あの時代のニュートン物理学からくる哲学の締め付けから、うまく逃れたと思っていました。
理性の限界を示すという方向性は、過去・現在・未来が同時に存在し、三次元以上があり、スカスカの存在であるにも関わらず、「時間は一つだけで、三次元の、固形物の集まりに見えてしまう」人間の通常の知覚力の限界にもつながり、現在においても、方向性としては面白くもあり、可能性も大きいアイディアだと思っています。
「人間がこの世と思っているのは、人間の意識が作り出すホログラムである」・・というところまでは、物理学的にも証明できますよね?
2008/10/19(日) 午前 10:56 [ カール(カヲル32) ]
私にも不可知論の時代がありましたが、梵我一如とでもいう経験をしたのでカントを超えたと思っています。「善の研究」を読んで私が最初かなと思ったのを否定されて神との合一は西田幾多郎が先だったと気づきました。私と似た経験をした人だと思いました。私にとって合一した神は「宇宙の進化する意志」とでも呼ぶと自分の経験にぴったりきます。
2008/10/19(日) 午後 5:26 [ jyu*do*3104 ]
日常生活の有限な思考をヘーゲルは「悟性」と呼んでいます。弁証法的発展を促進する思考を「理性」と呼んでいます。日常生活では通用する思考が「悟性」で、神と合一可能な思考が「理性」です。
私は、神は信仰でしか認識できないと主張するカントよりも神(絶対精神)を認識したというヘーゲルの方が好きです。ヘーゲルの認識した神は「論理学」で叙述されています。
2008/10/19(日) 午後 5:37 [ jyu*do*3104 ]
カントの話はとりあえず置いておいて。
「神との合一体験」というのは、古来より、神秘の世界ではさまざまあるように思います。
マトモとされているあらゆる古代の宗教家も、神との合一を体験しているように思っています。
たとえば、仏教とか、本来のキリスト教にも、その要素があると思っています。
ここに書いてある事柄だけで言えば、「日常感覚から真理まで段階的」という言葉には多少抵抗を感じます。「こちらから」みた段階に、どれほど意味があるのだろうかと思ってしまいます。
レベルという言葉だと「こちらから」見てるのか「あちらから」見てるのか、わからないので、もっと納得しやすいですが・・。
私はヘーゲルは、科学的手法を信じていて、科学的手法で「こちらから」つまり唯物的な方からやっていけば、真理にたどりつけると主張した人なのかと思っていました。
カントは、唯物論的方法では真理にたどりつけないと言いたかったのかと思っていました。違うんですね?
2008/11/5(水) 午前 1:37 [ カール(カヲル32) ]
つまり・・ある局面では、レベルは一気に上がるのであり、段階は必要ない・・と私は思ってしまっているみたいです。
それと、カントの純粋理性というのは、「唯物論的レベル」という意味なのかと思っていました。「唯物論では、真理には到達できない」というのが彼のいいたかったことなのかと思っていました。違うんですね?
2008/11/5(水) 午前 1:42 [ カール(カヲル32) ]