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意識の運動形式
(1) はじめに
意識の運動といってもピンとこない人が多いと思う。しかし、心理学者や哲学者は意識、無意識を研究してきた。その中で、私が最も気に入っているのは西田幾多郎である。
そこで、西田幾多郎の「善の研究」を参考に意識の運動形式を考察したいと思う。
(2) 意識は発展する体系である
ウイリアム・ジェームズは、意識を五感からのばらばらな感覚要素の集まりからできていると考えた。一方西田は意識を「発展する統一された体系」であると考えた。西田は、それが一切の思考を差し挟まない時「純粋経験」と呼んでいる。一個人の中には純粋経験は無数にある。
「意識の体系の背後にこの体系を統一する力が働いている」と西田は言う。これを私は意識の統一力を持った精神場と呼びたい。また、「背後」という呼び方は意識を支えている意識の奥深くにある無意識の意味だと思うが、現代物理学では意味不明である。それを、私は超弦理論における4次元時空を超えた余剰次元だと考えたい。この意識が矛盾なく分化発展しているときが純粋経験である。そのときは、経験は無意識である。
(3)純粋経験の「破れ」と「意味・判断」
一個人の中で複数の純粋経験が衝突したとき純粋経験は破れ「意味」が生じる。例えば、「赤い花」を見た時の純粋経験はただ「赤」である。「私が花を見ている」とか「花が赤い」とか思う以前の経験である。そこへ過去の意識が入り込んでこれはなんという花でありどのような性質をもった植物なのかという反省が入ってきて過去の意識即ち大きな意識体系の純粋経験の中に、現在の小さな意識体系即ち「赤い花」の純粋経験が位置づけられてこの花の意味(即ち他との関係)が生じる。このとき「赤い花」の純粋経験は破れる。
判断は純粋経験を分析することによって行われる。例えば、「走る馬」という純粋経験を分析して「馬が走る」と判断が行われる。このときも「走る馬」という純粋経験は破れる。
一般的に判断によって純粋経験は破られ意味が生じる。西田は意識の背後に統一力が働いているときそれを純粋経験と呼んでいる。一方意味・判断の背後に統一的意識があるので、意味・判断も純粋経験である。
(3) 弁証法的発展
統一された純粋経験は弁証法で言えば、「正」の状態である。判断によって純粋経験が破れた状態が「反」の状態である。この破れた純粋経験が高次の純粋経験によって統合された状態が「合」の状態である。西田の純粋経験説も弁証法的である。
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