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難しかったら、前の章から読んでください。できれば最初から。
第三章 物質・生命・精神
(1) はじめに
生命を五感で見ると物質です。素粒子の集まりです。しかし、それは主体を持っているように見えます。それは、なぜでしょうか。生命とは一体何なのでしょうか。
また、人間も五感で見ると物質です。しかし精神があるように見えます。それは一体どうしてでしょうか。脳が精神を生んでいるのだというのが現在の科学の主流ですが、脳といえども原子の集まりに過ぎません。原子の集まりが精神を生むというのは説明しがたいものです。これらはどういうことなのかを考えてみましょう。
(2) 素粒子とは何か
素粒子も精神であると考えるのが正解です。ただし、精神と言っても、最低次な精神であり、3次元宇宙創造以前にあった二つの根源的観念(観念といっても人間の観念ではない)が最低レベルで止揚されたのが素粒子です。二つの根源的観念の一方には、存在という観念があり運動という観念が無く、他方には運動という観念があり存在と言う観念が無く、両者を止揚したのが素粒子、特に物質場です。その結果運動する存在が実現しました。
対立する観念の止揚が起こったということは、この両者の間に観念の流れが生じたということです。両観念の間に交流ができたということです。図6のように、両観念の止揚の結果生じた素粒子は両観念の間に観念の流れを生じます。
素粒子は常識的には3次元空間内の粒でありますが、高次元空間で見たら、3次元空間を高次元方向に貫通する観念の流れです。この流れを五感で認識できる3次元空間で見たらその断面が粒に見えるわけです。
素粒子に限らず生物や人間精神も両観念の止揚の結果生じたものです。この場合も素粒子と同じく両観念の間に観念の交流が生じます。そこで、私独自の定義ですが、根源的両観念の止揚の結果できた観念を広義の精神と呼びたいと思います。別の表現をするならば、両観念の間を流れる観念を広義の精神と呼びたいと思います。この意味で、素粒子は精神なのです。そして、その素粒子が集まって複雑な構造を持った生物も精神を持っていることになり、また人間精神も広義の精神の一つです。
(3) 構造と発展の止揚としての生物
生物も素粒子の集まりです。しかし、生きているというように感じられます。単なる物体とは違った運動をします。単細胞生物をみても、例えば、ゾウリムシでもえさを探してその方向に泳いで行きます。つまり、単なる砂粒とは違う運動をします。ここで、素粒子の集まりに過ぎない生物がどうして主体を持てるのかが問題となります。
第二章で説明したように、生命は体系になっています。個体、臓器、細胞、原子、素粒子というような体系です。例えば、細胞が原子を束ねて自分を創る過程について考えてみましょう。素粒子は、存在と運動の対立する観念の止揚でした。同じように生物は構造と発展の止揚です。緻密な構造を持っていると言うのが生物の一つの性質ですがこれが固まりすぎると、環境に適応できなくなりすぐに死んでしまいます。生物には構造と言う性質のほかに発展という性質があり、これは成長していったり新陳代謝して自己の構成物を入れ替えたりします。全ての生物は構造と発展の止揚の結果生成したものと言えます。
生物が、3次元空間に出現する以前に、高次元空間で、構造と発展を両立したイデアというものができます。これが、生命の主体となります。すなわち、生命場です。しかし、3次元空間に出現しないイデアは、まだ完全な止揚にはなっていません。3次元空間に顕在化して、はじめて完全に構造と発展の止揚になります。イデアの顕在化は、単細胞生物の場合だと、主体が原子、もしくは素粒子を束ねて、これらを自己に従わせて実現されます。生物は自己を構成する素粒子を自己に従わせます。このとき、素粒子の場合と同じく、構造と発展が止揚され根源的両観念の間に観念の流れが生じます。この生物の3次元空間内での生成は、根源的両観念の素粒子の止揚より高次の止揚でありますが、そのときの根源的両観念の交流は素粒子を通してなされます。そして、生命と言う観念が単純に見える高次元空間から見れば3次元空間が複雑に見え、そのため生命と言う観念が3次元空間を高次元方向に貫き根源的両観念に観念の交流が生じるようにするためには、素粒子を複雑な構造に組合さなければなりません。生命という観念が3次元空間を高次元方向に貫通するのは素粒子の場合の図6のようには単純ではなく、また第五章におけるらせんの例よりはるかに複雑に3次元空間がぐちゃぐちゃに曲がった空間を単純な生命の観念が直進して貫通するのです。
たとえば、生命が持っている「食べたい」という衝動は自覚が無くとも高次元空間では単純な目的意識であり、これも単純な観念の流れですが、それは3次元空間が単純に見える視点からは食べるという欲求を持つ存在は相当複雑なものです。このように、両観念に高次な観念の交流を実現するためには、素粒子という最低次の観念の流れを複雑に組み合わさなくてはなりません。これが、生命が複雑な構造を持つ理由です。素粒子を生物に秩序立てる力は素粒子に作用する物理の法則にあるのではなく、構造と発展を止揚した生命のイデア、すなわち、生命場にあります。
(4) 素粒子の集まりとしての人間精神
人間は狭義の精神、つまり高次な心の機能を持った存在です。人間は文字を読んだり、数を数えたりしますが、それは他の生物にはできない高次な心の働きです。2×2=4という計算は高次な精神の働きですが、それは人間精神にとっては単純なものです。しかし、それは人間精神にとっては単純なものですが、それを3次元空間内で思えるには、大脳という複雑な組織が必要です。これも、生物について述べたように、高次な観念が、3次元空間内で実現するには、高次元の観念が単純にみえる空間から見れば、3次元空間は複雑に見えるのと、3次元での観念は素粒子を組み合わせてしか実現できないと言う理由で、3次元内での素粒子は複雑な構造を持つことを要求されます。それが脳です。人間がこの世で思う一切は、人間の主体、言い換えるならば精神場が脳を制御することによってできた素粒子の観念の流れの総和です。
(5) 安らぎと向上の止揚としての人間精神
精神と言うのは高次元の根源的両観念の間を流れる観念のことでした。それでは、人間精神とはどのようなものかと言うと、それは、二つの観念の止揚でしたが、それは何かと言うと安らぎ(静)と向上(動)の止揚です。人間には安らぎを欲する傾向と向上を欲する傾向があります。安らぎが続きすぎると、人間は退屈を感じ始めます。逆に、向上を目指して努力ばかりをし続けると安らぎを求め始めます。また、安らぎと向上を交互に経験するだけでなく、向上のための努力の中で安らぎを感じると言うのが人間の理想です。安らぎと向上を両立できた方が優れた人間と言えます。
(6)五感的認識
人間には素粒子の集まりである身体に、3次元世界を認識する五感があります。外部から身体に何らかの物理的刺激が加わると、それを五感がキャッチして外部の認識が生じます。それは、五感によって捉えられた信号が脳に伝わることによって生じるものです。脳を通常の意味での素粒子という唯物論的立場からはそれを説明できません。これは、脳を形成する素粒子の配列が脳に伝達された刺激によって変化し、その結果3次元を貫通する人間の高次の観念の流れが変化し、それが意識の変化となって外部の認識が形成されるのです。これは、トランジスタの原理に似ています。高次元方向に観念の大きな流れがあり、それは身体を構成する素粒子の流れの総和です。この流れが五感からの微小な刺激によって大きく変化するのです。これが、五感による外界の認識です。このようなメカニズムによって外部認識が生じるのです。
(7)内面の主体
一方、内面から外面への作用もあります。身体はあくまでも原子の集まりとして存在するのであって主体ではありません。精神としての意志作用があったとき、それが高次元にある主体であり、それは低次元の精神に分化し(図5参照)、最終的には外面からではなく内面から(高次元のほうから)素粒子に作用するものと思われます。このようなことがあって、精神が主体であり、精神が身体を動かすことが説明できます。意志作用の根源は高次元にあって内面から素粒子に作用するのです。これが、心が身体を動かすということです。
この最後の点は最も難しい問題です。精神が内面から素粒子に作用して素粒子の運動に変化を生じさせることが可能かどうかと言う点です。現代唯物科学は、生命を構成している素粒子も物理の法則にしたがっているのであって、自由意志は無いと考えます。すると、内面から素粒子に作用を及ぼすことが可能でないと人間の自由意志は説明できないことになります。自由意志は錯覚ということになってしまいます。
現在の科学の範囲では、精神が身体を動かす主体であることは、素粒子の確率波が精神によって変化を受けていると考えることによって説明可能であると思います。ただし、それは今のところ人間の直観を超えた複雑な変化なので、分子生物学では生命を構成する原子が単純に物理の法則に従っているように見えるのでしょう。
(8)観念論の科学
素粒子も言い換えるならば物質も精神であることが分かりました。これで、観念論科学の基本的視点が得られたと思います。
また、この世の矛盾の根源的起源は、二つの根源的観念の対立にあり、そして人間はその矛盾を解消すべく努力せざるを得ない存在であること、そして、宇宙進化の先端の存在であることによって、宇宙創造の観念を分有し、自らも宇宙進化に貢献せざるを得ない存在であることが分かりました。そして、精神現象、生命現象、物理現象を統一的に認識できました。これは大きな成果です。
また、超ひも理論は物理学の統一理論ではなくて、精神−生命−物質の統一理論ではないだろうかと提案したいと思います。
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