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ここでは、唯物論と観念論のどちらが正しいかを論考します。結論は客観的観念論が正しいということです。物がどうして意識を産むかは説明できないことを理解してください。
第一章 唯物論と観念論
(1)はじめに
唯物論の代表的な立場は二つあります。一つは、形而上学的唯物論と呼ばれるもので、もう一つは、人間学的唯物論と呼ばれるものです。
観念論も二つに分けられて、一つは主観的観念論であり、もう一つは客観的観念論です。
私の立場は客観的観念論です。ひとつひとつ説明していきましょう。
(2)形而上学的唯物論批判
形而上学的唯物論(西田幾多郎「哲学概論」147ページ岩波書店)は、次のような考えである。「あるということは、全て空間においてあるということであり、それ以外の存在は無い。そして、空間においてあるのは物質である。したがって、物質のみがあるのである。」というものです。
しかし、3次元空間内に物があるという場合、物を認識する、認識主体が存在していることが暗に前提されています。したがって、この「認識」を説明しなければいけませんが、唯物論からはそれを説明できません。このことが、形而上学的唯物論の欠点です。
しかし、私の立場は高次元理論なので、3次元空間に無い精神的なものや生命的なものが高次元にあると考えます。生命や精神が物質と異なる最大の特徴は、「秩序を生成すること」です。このような秩序を生成する生命力や精神力を高次元の秩序場であると私は考えます。秩序場とはそれが物質に作用して、秩序を生み出すような場です。
心と言えば他人の心より、自分の心のほうがよく認識できます。心は内面の世界です(詳しくは第四部で説明します)。この内面の世界を私は高次元空間であると考えるのです。このような、3次元空間を占有する物質以外の生命場や精神場が高次元空間にあるということで、我々は形而上学的唯物論を脱出できます。
3次元空間に存在するものは、物質だけかもしれませんが、それは、人間の五感が認識するのが3次元空間に制限されているからです。しかし、人間には五感の他に、自分自身の心を認識できる能力があります。それは内部知覚能力と呼ばれるものです。内面の世界を認識する能力が人間にあるのです。
この、内部知覚の能力は努力しだいで高まっていきます。そして、あるレベルに達すると、内面の世界が個人の範囲を超えていきます。普遍的精神の世界へと到達します。普遍的精神の世界の体験とは、自分の心が自分だけで閉じているのではなく、根源的なものから分かれてきたと認識する体験です。根源的なものというのはヘーゲルの場合は絶対精神であり、私の言葉で言えば、宇宙の進化する意志のことです。私は、この世界を高次元の精神場の世界であると規定したいと思います。
(2)人間学的唯物論批判
次に、人間学的唯物論(西田幾多郎「哲学概論」148ページ岩波書店)ですが、それは、「精神現象は身体現象を伴うので、精神現象は物質現象に随伴するものである」(物心並行論)という考えです。したがって、それは、「精神現象は脳の生理現象に還元される」という考えです(脳生理学の誤謬については、第三部第三章参照)。
また、この考えは精神は物質(身体)なくして存在はしないが、物質は精神なくしても存在できるので、精神よりも物質の方が基本的であるという考えです。
私は物心並行論を否定はしません。確かに物と心、あるいは、脳と精神は対応付けがあります。脳の或る状態は心の或る状態に対応するというものであり、それは、確かに正しいでしょう。しかし、だからと言って、脳は心ではありません。これは、重要なことです。現在の科学者や脳生理学者は脳を心だと誤解しているからです。そして、物心並行論における脳と心の対応関係はなぜ、そのような対応があるのかという必然性がありません。それが、人間学的唯物論の欠点です。
人間には精神があるがそれは、互いの精神が似通っているから認められることです。石ころにしても相当低いレベルの精神があるかもしれません。あるいは、原子でさえ精神を持っているかもしれません。ということは、物質は精神無しに存在することができるというこの唯物論の断言は成立しません。これが人間学的唯物論の欠点です。
しかし、「高次元宇宙論的自己組織化論」の立場では、潜在的な精神が物質とは独立に高次元空間に存在すると考えます。つまり、物質無き精神を考えます(このようなものがあるかどうかの検討は今のところ不十分でありますが、取りあえず、この立場で理論を構築していきたいとおもいます)。物質なき精神とは、人間のように物質と結びついた精神ではなく、身体を持たない精神のことで、まだ顕在化していない精神のことです。これを認めることによって、人間学的唯物論を脱出できます。
高次元宇宙論的自己組織化論の立場では、高次元の精神場を考えますが、しかし、精神―物質の二元論ではなくて、物質は精神の特別な場合であるとする精神一元論を考えます(詳しくは第五部で説明します)。
(3)主観的観念論
物質よりも精神のほうがより基本的存在であるとする観念論は二つに分けられます。一つは主観的観念論であり、もう一つは客観的観念論です。
先ずは、主観的観念論から説明します。
常識的には、ひとつのコップを見ている場合、見えているコップはコップのあるがままであると考えます。しかし、主観的観念論はその考えを疑います。コップのあるがままと思われているコップの像は私の意識の性質と切り離して考えることはできません。なぜなら、同じカラフルなコップを見るとき、正常な視覚能力を持つ人と色覚障害の人とでは見え方が異なるからです。正常な視覚を持つ人はカラフルなコップの像を持ちますが、色覚障害の人は白黒のコップの像を持ちます。したがって、同一のコップでも、その認識像は、認識する人の意識の性質に依存しているのです。すると、客観的にコップというものがあって、それを複数の人々に異なって認識されるのかというとそうでもなく、コップの像は認識できますが、コップそのものは誰も認識できないので、コップそのものは考える必要は無いとします。したがって、コップの像は、対象側に属するのではなくて、意識の側に属するものです。意識がコップの像を生成したのです。したがって、物質は存在せず、在るのは意識現象のみであるということになります。意識を超えた存在というものは考えてはいけないということになります。我々が見ている世界像は、精神の外部にあるのではなくて、一切の事物は個人の主観の観念に他なりません。我々が知りえるのは、自己の意識現象のみであります。いわゆる、外界の実在と言うものは、実は我々の意識においてこうしたらこうなるという恒常的関係を持ち、したがって、客観性を持っているように思われる意識現象のことです。
主観的観念論は独我論に陥りやすいのが欠点です。独我論とは「一切の事物は客観的には存在せず、自分の意識の産物である。」と言う考えです。つまり、「存在するのは私の観念のみ」と言う考えです。他人が意識を持っているのも認めず自分の意識のみがあると考えるのです。
西田幾多郎は「善の研究」の序文で、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ・・・」と書いています。いわゆる、純粋経験論が独我論からの脱出を可能にしたのです。純粋経験とは、あらゆる思考や判断が加わらない前の経験のことです。
ともかく、独我論に陥っては真理の認識は不可能になります。
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初めまして。ヨクパパと申します。
大変興味がありますので、転載させてください。
よろしくお願いいたします。
2007/12/1(土) 午前 9:59 [ - ]
秩序場というのは、概念として自然だと思います。
2008/7/8(火) 午後 9:37 [ カール(カヲル32) ]
こんなことを考えてみました。
スピリチュアル宇宙論 【物質は精神の影である】
神とは高次元宇宙空間を満たし
宇宙の進化と創造を促す精神エネルギーのことである。
宇宙空間にゆらぎが生じ、精神エネルギーが
低次元空間に溢れ出し(精神エネルギーのビッグバン)
共鳴し合いながら拡大することでこの世界が誕生した。
このとき、精神エネルギーの波が壮大な交響曲を
宇宙空間に鳴り響かせたかもしれない。
その後、精神エネルギーの一部が凝縮し
物質が発生した。
2013/1/11(金) 午後 3:44 [ オメガ ]
私の言いたいことのエッセンスをつかんでいますね。
私は認識論においては神秘主義の立場に立ちますが、実証精神もあるのです。私の感覚では、20世紀に原子の存在が証明され一般人にとっても常識になったように、21世紀には神の存在も証明され一般人の常識になって、様々な応用技術が開発されると思っています。
2013/1/20(日) 午後 2:24 [ nakamura3104 ]
「電子の精神の構造と機能」という文章を書きました。量子力学を電子は精神であるという立場で解釈しました。
「nakamura3104」をクリックしてください。
2013/1/20(日) 午後 2:28 [ nakamura3104 ]
音楽体験を元に波動宇宙論というのを考えました。
精神と物質を統合する究極の粒子は、振動するエネルギー粒子、重力子ではないかと思います。高次元の場も重力子が作り出していると思ってます。
私のブログ
思想家ハラミッタの面白ブログhttp://blog.goo.ne.jp/mosiri55/e/c6ba061a097e163138cde94e4e204578
2013/1/26(土) 午後 2:01 [ オメガ ]
ひとつ質問があります。
マイケルソンとモーリーの実験でエーテルの存在が否定されましたが
エーテルが常に地球の中心に向かって流れ込み、地球の自転と共に移動していると仮定すると、この実験ではエーテルの存在を調べられないのではないでしょうか。
2013/2/4(月) 午後 3:12 [ オメガ ]
エーテルを観測するにはエーテルに対して異なった運動をする複数の実験系が必要です。地球のあらゆる運動に対して静止しているエーテルを地球上で観測するのは不可能です。静止エーテルの中での光の運動を測定することになるからです。
エーテルは地球の外ではどう運動すると仮定するのですか。エーテルが太陽に対して静止していると考えるならば、例えば季節によって月にあてた光が反射して帰ってくる時間は異なるのでエーテルを検出できることになります。
2013/2/4(月) 午後 6:10 [ nakamura3104 ]
エーテルはあらゆる物質に流れ込んでいると仮定しています。
2013/2/6(水) 午前 11:59 [ オメガ ]