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方法的懐疑
(1) はじめに
哲学においては、全ての先入観を排して可能な限り全てを疑うというのは大切なことだとされている。それで、有名なのは全てを疑い尽くして疑えないのは「我思うゆえに我在り」のみとして、そこから哲学を出発したデカルトである。しかし、全てを疑い尽くしたら必ず真理にたどり着けるかと言うとそうもいかないだろう。そこで、正しい方法的懐疑はどのようなものかを考えてみよう。
(2) 学習の必要性
全てを疑い尽くせば真理にたどり着くというわけにはいかないことは、もし何も学習しない場合を考えれば分かるだろう。文字も覚えず、言葉も覚えず、数も習わなかった場合真理どころではないだろう。
勉強の成果でもっとも重要なことは、深く考える能力を身につけるということである。頭が良いということは、知識をたくさん持っているということではなく、自分の意識の微妙な差に敏感であるということである。もちろん、全方位的に敏感ということではなく、数学を勉強した人は、数学的な感受性が高まって、数学の内容の微妙な差に敏感になるし、文学を勉強した人は、文章の微妙なニュアンスに敏感になるだろう。
デカルトの場合も、彼が方法的懐疑にたどりつくまでは、当時の先端的学問を勉強し尽くしている。その後、自分が勉強した学問が本当に真理かどうかを疑ったのである。
(3) 方法的懐疑
哲学的懐疑というと、他人の主張したことを受け入れずに、全てを自分の頭で考えるというように思われがちであるが、それは正しくない。
そこで、大切なことは勉強することによって意識の微妙な差に敏感となったこと、即ち思索力がついたということであり、それは言い換えるならば心を深く掘り下げたということである。そこで、正しい方法的懐疑とはどういうことかと言うと、勉強した知識が浸透している心の深さよりも深いところまで心を掘り下げて勉強した知識が浸透していない白紙のところで考えるということである。
間違った懐疑とは、勉強した浅いところにある他の知識を根拠にして、それより深いところにある知識を疑うということである。それは、本末転倒である。したがって、勉強するときはできるだけ深く納得して、疑うときはそれよりさらに深いところで考えるのがベストである。
(4) 真理とは
真理とは真の自己が何であるかを知ることである。真の自己は宇宙の主体である神である。そして、真の自己は心を深く掘り下げることによってのみ認識できる。だから、方法的懐疑によって心を深く掘り下げることは、真理の認識にとって不可欠なのである。
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