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			<title>宇宙創造の秘密</title>
			<description>高次元宇宙論的自己組織化論を提唱する。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>宇宙創造の秘密</title>
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			<description>高次元宇宙論的自己組織化論を提唱する。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104</link>
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		<item>
			<title>意識の統一とは何か</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;意識の統一とは何か&lt;br /&gt;
（１）	はじめに&lt;br /&gt;
　西田幾多郎は「善の研究」の中で、「純粋経験の本質は具体的意識の厳密な統一にある」という趣旨の発言をしている。しかし「統一」とは何かは不明確である。そこで、意識の統一とは何かを考察してみよう。統一には主に「概念形成の統一力」と「目的実現の統一力」がある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;（２）	概念形成の統一力&lt;br /&gt;
　概念とは多数の個物を内包する普遍的観念のことである。同じ性質を持ったものに名前を付けてひとまとまりのものとみなすのである。&lt;br /&gt;
　概念形成の過程を説明しよう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　みかんという概念は色、形、味が共通するものをまとめて形成される。さまざまな経験の中から共通する属性を持ったものを抽象して概念を形成する。すなわち、黄色くて丸くて、ある程度柔らかくて、甘酸っぱいものをみかんと呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　一般に共通の属性を持っているものをまとめ上げて名前を付けて概念を構成する。しかし、それは人間が勝手にやるのではなく概念の力による。類似の観念には結合しようという力が働く。みかんという概念形成にも色、形、味が同じものを結合してできている。結合は人為的なものではなくて観念の法則によるものである。観念の自発的結合は意識統一といえる。したがって、概念形成における意識統一は純粋経験である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　概念形成における人間の努力は、個人的意志を否定して観念の自由運動を促進することである。&lt;br /&gt;
　これは、表象的経験といえる。それで、西田は表象的経験も純粋経験であると言っている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;（３）	目的実現における統一&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　野球の試合で勝とうとするとき意識は集中・統一されている。このとき「勝つ」という目的に全意識が投入され個人的自己は否定されている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　意識の頂点に「勝つ」という目的があってその下位に勝つための手段があり、さらにその下位にその手段があるというように目的―手段の体系ができる。意識が統一されるというのは、下位の目的が上位の目的に従うということである。すなわち、野球に勝つという目的の体系に厳密な意識統一が作用しているのである。したがって、目的実現の経験は純粋経験である。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
（４）	知覚的経験における統一&lt;br /&gt;
　一般に知覚とは五感から入ってきた感覚に記憶や思考を差し挟んだものである。すると&lt;br /&gt;
、一切の思考を差し挟まない経験が純粋経験であるという純粋経験の最初の定義と矛盾する。しかし、具体的意識の厳密なる統一が純粋経験であるという定義に則って、「知覚の背後に統一力が働いていることから、知覚も純粋経験に含ませる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　知覚の背後の統一力とは何だろう。人間は普通知覚の対象を認識して知覚作用は認識しない。知覚の背後の統一力とは何かを考えようとしたら認識論を展開しないといけない。知覚の主体はなにか、知覚内容はどのように構成されるかを考えないといけないので今は困難なので保留にしておこう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104/35921521.html</link>
			<pubDate>Sun, 07 Dec 2008 16:01:13 +0900</pubDate>
			<category>物理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>純粋経験第4段落４</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;この点は知覚的経験においても、表象的経験においても同一である。表象の体系が自ら発展するときは、全体がただちに純粋経験である。ゲーテが夢の中で直覚的に詩を作ったというごときはその一例である。
　あるいは知覚的経験では、注意が外物から支配せられるので、意識の統一とはいえないように思われるかもしれない。しかし、知覚的活動の背後にも、やはり或る無意識的統一が働いていなければならぬ。注意はこれによりて導かれるのである。
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;[考察]&lt;br /&gt;
　西田幾多郎は、純粋経験を一切の思考を差し挟まないあるがままの経験と定義したのにもかかわらず、知覚を純粋経験とするのには、「知覚的活動の背後に無意識的統一があるから」と定義をずらしている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104/35551479.html</link>
			<pubDate>Mon, 17 Nov 2008 21:18:39 +0900</pubDate>
			<category>物理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>意識の運動形式</title>
			<description>意識の運動形式&lt;br /&gt;
（１）	はじめに&lt;br /&gt;
　意識の運動といってもピンとこない人が多いと思う。しかし、心理学者や哲学者は意識、無意識を研究してきた。その中で、私が最も気に入っているのは西田幾多郎である。&lt;br /&gt;
　そこで、西田幾多郎の「善の研究」を参考に意識の運動形式を考察したいと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）	意識は発展する体系である&lt;br /&gt;
　ウイリアム・ジェームズは、意識を五感からのばらばらな感覚要素の集まりからできていると考えた。一方西田は意識を「発展する統一された体系」であると考えた。西田は、それが一切の思考を差し挟まない時「純粋経験」と呼んでいる。一個人の中には純粋経験は無数にある。&lt;br /&gt;
　「意識の体系の背後にこの体系を統一する力が働いている」と西田は言う。これを私は意識の統一力を持った精神場と呼びたい。また、「背後」という呼び方は意識を支えている意識の奥深くにある無意識の意味だと思うが、現代物理学では意味不明である。それを、私は超弦理論における4次元時空を超えた余剰次元だと考えたい。この意識が矛盾なく分化発展しているときが純粋経験である。そのときは、経験は無意識である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）純粋経験の「破れ」と「意味・判断」&lt;br /&gt;
一個人の中で複数の純粋経験が衝突したとき純粋経験は破れ「意味」が生じる。例えば、「赤い花」を見た時の純粋経験はただ「赤」である。「私が花を見ている」とか「花が赤い」とか思う以前の経験である。そこへ過去の意識が入り込んでこれはなんという花でありどのような性質をもった植物なのかという反省が入ってきて過去の意識即ち大きな意識体系の純粋経験の中に、現在の小さな意識体系即ち「赤い花」の純粋経験が位置づけられてこの花の意味（即ち他との関係）が生じる。このとき「赤い花」の純粋経験は破れる。&lt;br /&gt;
判断は純粋経験を分析することによって行われる。例えば、「走る馬」という純粋経験を分析して「馬が走る」と判断が行われる。このときも「走る馬」という純粋経験は破れる。&lt;br /&gt;
一般的に判断によって純粋経験は破られ意味が生じる。西田は意識の背後に統一力が働いているときそれを純粋経験と呼んでいる。一方意味・判断の背後に統一的意識があるので、意味・判断も純粋経験である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）	弁証法的発展&lt;br /&gt;
　統一された純粋経験は弁証法で言えば、「正」の状態である。判断によって純粋経験が破れた状態が「反」の状態である。この破れた純粋経験が高次の純粋経験によって統合された状態が「合」の状態である。西田の純粋経験説も弁証法的である。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104/35090238.html</link>
			<pubDate>Sat, 25 Oct 2008 21:04:59 +0900</pubDate>
			<category>物理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>純粋経験第四段落3</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;第四段落３
　瞬間的知覚の如きものでも決してこの形に背くことはない。例えば一目して物の全体を知覚すると思う場合でも、仔細に研究すれば、目の運動とともに注意は自ら推移して、その全体を知るに至るのである。
　かく意識の本来は体系的発展であって、この統一が厳密で、意識がおのずから発展する間は、我々は純粋経験の立脚地を失わぬのである。
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;［考察］&lt;br /&gt;
　この形：統一を保ちながら体系的発展をしていくという形式のこと。&lt;br /&gt;
　例えばみかんを瞬間的にこれはみかんと知覚した場合でも、細かく見れば位置、色、形を意識が体系的に発展することによって知覚しているということを主張したい。&lt;br /&gt;
　意識が統一を保ちながら体系的に分化発展していくのが純粋経験である。意識が他と衝突し体系的発展が破れたときそれは純粋経験ではない。この衝突は自覚と言う形で反省されるものとなる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104/34230194.html</link>
			<pubDate>Thu, 11 Sep 2008 21:29:47 +0900</pubDate>
			<category>物理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>純粋経験第四段落２</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;第四段落２
　初生児の意識のごときは明暗の別すら、さだかならざる混沌たる統一であろう。この中より多様なる種々の意識状態が分化発展し来るのである。しかし、いかに精細に分化しても、どこまでもその根本的なる体系の形を失うことはない。
　我々に直接なる具体的意識はいつでもこの形において現れるものである。
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;［考察］&lt;br /&gt;
　純粋経験は先ず、主客未分の初生児から始まる。このときの純粋経験の統一は混沌たる統一である。純粋経験は分化発展する。例えば、初生児は母親も自分の一部と思い、自他の区別がないが、次第に自分の思い通りにならないものがあることを知り、自他の区別が出てくる。これは、純粋経験の分化発展である。そして、成長にしたがって、さまざまな対象の区別ができてくるが、それでも、一なる私、という統一は保持されたままである。&lt;br /&gt;
　このように、純粋経験は主客未分の統一から分化発展しつつ統一を保つという形式を持っている。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104/34145268.html</link>
			<pubDate>Sun, 07 Sep 2008 17:35:17 +0900</pubDate>
			<category>物理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>統一と分化発展</title>
			<description>統一と分化発展&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）はじめに&lt;br /&gt;
　人間の意識の状態は固定された単一状態ではなく、多様な状態に変動する。しかし、一個人は一個人としての意識があり統一されている。多様性と統一の関係を考察してみよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）統一&lt;br /&gt;
　音楽の一曲について考察してみよう。曲はメロディーとリズムからなるが、優れた曲ほど一曲のまとまりがある。幼児が勝手に作曲した曲はリズムもまとまりもなく誰にも感動を与えない。しかし、優れた作曲家が作った曲は、心の深いところを揺さぶる。曲の連続に必然性が感じられまとまりがあるのである。それは、優れた作曲家の内面に統一力があり、それに合致した音を見つけると言う作曲の方法を取っているからである。&lt;br /&gt;
　即ち、優れた曲ほど統一力があり、レベルの低い曲ほど統一力がないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）分化発展&lt;br /&gt;
　一流の作曲家は一曲を一瞬でイメージできるらしい。それを曲にするには音符で表現しなければならない。作曲前にイメージした理念に合致した音を作っていかなければならない。作曲家は一なる理念から多なる音符に理念を分化させていくのである。一方聴く方は多なる音から一なる理念を認識するのである。&lt;br /&gt;
　曲は多数の音からなっているが、単なる雑音ではなく理念によって一つに束ねられている。&lt;br /&gt;
　このように理念が具体化するには一なる理念が統一力を保ったまま、理念が環境に応じて分化していく。しかも、いくら分化しても統一力は保持され破れることはない。一方分化したものの一つ一つに統一力の理念が浸透している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）人間精神の本能&lt;br /&gt;
　人間は私は私であるというアイデンティティーによって、人格が一つに統一されている。人格が一つにまとまらずちりぢりばらばらになっているということは、悩んでいる状態のことである。すなわち、人間には人格を一つに統一したいという本能的欲求がある。&lt;br /&gt;
　しかし、統一のみならず精神の分化発展の欲求が人間にはある。&lt;br /&gt;
　例えば職業がタクシーの運転手の場合、私はタクシーの運転手であるというアイデンティティーに満足することはできない。それで、自分の多様性を満足させるために、カラオケに行って歌ったり、ゴルフや野球などスポーツをしたりする。自分の多様性の実現は精神の分化発展である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）人間精神の高次元宇宙論的位置づけ&lt;br /&gt;
　私の宇宙論は観念論的宇宙論であり、4次元時空ができる前に最初から観念空間として高次元宇宙があり、そこで、「静」の観念と「動」の観念がありこの二つの観念が止揚を始めたのがビッグバンであると考える。素粒子が静と動の最低次の止揚である。&lt;br /&gt;
　人間はというと「静」の側から統一が現われ「動」の側から分化発展があらわれ両者が止揚されたのが人間と考える。&lt;br /&gt;
　それで、人間には統一の本能と分化発展の本能がある。そして、統一が深ければ深いほど、分化発展が広ければ広いほど優れた人間といえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（６）	まとめ&lt;br /&gt;
　人間には統一と分化発展の本能があり、それが深く広いほど優れた人間といえる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104/34123333.html</link>
			<pubDate>Sat, 06 Sep 2008 14:43:41 +0900</pubDate>
			<category>物理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>純粋経験第4段落１</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;第四段落１
　純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。返って具体的意識の厳密なる統一にあるのである。意識は決して心理学者のいわゆる単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一つの体系を成したものである。
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;［考察］&lt;br /&gt;
　純粋経験を理解するうえで「統一」という概念を深く理解しないといけない。&lt;br /&gt;
　カレーライスを作るときの例を考えよう。にんじん、じゃがいも、たまねぎ、カレー粉を集めて料理をする。この料理をする間意識はカレーライスの完成に「統一」されていると言える。また、この意識は体系的である。カレーライスを作るためににんじん、じゃがいも、たまねぎを切りきざむ。ご飯を炊く。この料理はカレーライスの完成に合致するように体系的行為となっている。このように意識が統一されているという意味で、カレーライスを作ると言う行為は最初から最後までが一つの純粋経験である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104/34114434.html</link>
			<pubDate>Fri, 05 Sep 2008 23:47:26 +0900</pubDate>
			<category>物理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>純粋経験の性質２</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;第三段落後半：純粋経験の性質
　次に、かかる純粋経験の綜合はどこまで及ぶか。純粋経験の現在は、現在について考うる時、すでに現在にあらずというような思想上の現在ではない。意識上の事実としての現在にはいくらかの時間的継続がなければならぬ。すなわち、意識の焦点がいつでも現在となるのである。それで、純粋経験の範囲はおのずから注意の範囲と一致してくる。
　しかし、余はこの範囲は必ずしも一注意の下にかぎらぬと思う。我々は少しの思想も交えず、主客未分の状態に注意を転じて行くことができるのである。
　例えば、一生懸命に断岸をよずる場合のごとき、音楽家が熟練した曲を奏するときの如き、全く知覚の連続といってもよい。また、動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うているのであろう。
　これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡を保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ前の作用がおのずから後者を惹起しその間に思惟を入れるべき少しの亀裂も無い。
　これを瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点においては、少しの差別もないのである。
　特にいわゆる瞬間的知覚なるものも、その実は複雑なる経験の結合構成せられたものであるとすれば、上二者の区別は性質の差ではではなくして、単に程度の差であるといわねばならぬ。
　純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。心理学者の言うような厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想したものであって、事実上に直接なる具体的経験ではないのである。
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;［考察］&lt;br /&gt;
　ここで、「現在」というのは、数学上の点のような一瞬のことではなく、実際上の経験の「現在」であり、ある程度広がった「現在」のことである。&lt;br /&gt;
　すると、純粋経験は記憶ではなく「今」の経験であり、「今」とは一注意のもとにあるので、純粋経験は一注意の範囲に限られてくるものと考えられる。しかし、西田はそうは考えず、音楽家が一曲を演奏する場合、注意の推移があっても一曲が純粋経験と見做す。それは、意識の流れが反省などによって中断されることがないからである。&lt;br /&gt;
　心理学者には感覚が純粋経験と考える人がいるかもしれないが、そんなものは無いと考える。視覚だけの経験とか、聴覚だけの経験は想像上のものとしてその存在を否定する。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104/34031963.html</link>
			<pubDate>Mon, 01 Sep 2008 20:13:51 +0900</pubDate>
			<category>物理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>純粋経験の性質１</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;第三段落前半：純粋経験の性質
　さて、かく我々に直接であって、すべての精神現象の原因である純粋経験とはいかなるものであるか。これより少しくその性質を考えてみよう。
　まず純粋経験は単純であるか、はた複雑であるかの問題が起こってくる。
直下の純粋経験であっても、これが過去の経験の構成せられたものであるとか、また後似てこれを単一なる要素に分析できるとかいう点より見れば、複雑といってもよかろう。しかし、純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間においては、いつも単純なる一事実である。
たとい過去の意識の再現であっても、現在の意識中に統一せられ、これが一要素となって、新たなる意味を得た時には、すでに過去の意識と同一といわれぬ。
これと同じく、現在の意識を分析した時にも、その分析せられたものはもはや現在の意識と同一ではない。
　純粋経験の上から見ればすべてが種別的であって、その場合ごとに、単純で、独創的であるのである。
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;［考察］&lt;br /&gt;
　みかんを見たときの例&lt;br /&gt;
　　みかんを見たとき、色、形、固さ、味、においなど様々な感覚がみかんから得られる。これらの要素が統一されてみかんという「純粋経験」が与えられる。純粋経験が多様な感覚から得られるという意味では、純粋経験は複雑である。しかし、「みかん」という単純な一事実の経験という意味では純粋経験は単純である。&lt;br /&gt;
　　みかんを親戚に送ろうと考えているときに、過去のみかんの純粋経験が記憶として再現される。しかし、過去の記憶は純粋経験ではない。みかんを親戚に送ろうというのが純粋経験であり、過去のみかんの経験は、みかんを親戚に送ろうという純粋経験に統一されたことになる。過去のみかんの経験は、純粋経験ではなくみかんを親戚に送ろうという純粋経験に統合されて「意味」となる。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104/33986587.html</link>
			<pubDate>Sat, 30 Aug 2008 11:08:53 +0900</pubDate>
			<category>物理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>量子力学と古典力学との違い</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;量子力学と古典力学との違い（by　ボーム）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;違い１：連続的で精密に定義される軌道という古典的概念は、不可分な遷移の系列による運動の記述の導　　　入によって根本的に変更された。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;違い２：古典論の厳格な決定論にかわって、近似的かつ統計的な性格の因果律の概念が用いられることと　　　なった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;違い3：要素的な粒子が決して変わらない“内在的な”性質を持つという古典論の仮定は、それが周りの　　　環境にどう扱われるかに依存して、波のようにも粒子のようにもふるまうことができるという仮定　　　で置き換えられた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;考察（by　jyuudou3104）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;［考察１］&lt;br /&gt;
　粒子の運動が分かるということは、古典論では粒子の軌道が分かるということであり、&lt;br /&gt;
　量子力学では遷移確率が分かるということである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;［考察2］&lt;br /&gt;
　　古典論は理想的な系では決定論であり全てがニュートンの運動方程式に従うと考えられ&lt;br /&gt;
　ていたが、量子力学では遷移確率が分かるだけで決定論ではない。確率的な予測しかできない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;［考察3］&lt;br /&gt;
　　古典力学では波は現象であり、波を起こす実体が想定されていた（海の波に対しては海水が実体）。　しかし、量子力学では現象と実体の区別は無く、しかも電子は観測のされ方によって波としても粒子と　しても現れる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/jyuudou3104/33858260.html</link>
			<pubDate>Sat, 23 Aug 2008 16:53:38 +0900</pubDate>
			<category>物理学</category>
		</item>
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