1、 わが国の紬
わが国における古い時代の紬の記録について「奄美大島史」(坂口穂太郎著)や「大奄美史」(昇曙夢著)は日本百貨大辞典の紬の項を引用して「紬は其何時に始まれるかを知らず、東大寺献物帳に聖武天皇の御物の七條褐色紬袈裟見え、續日本後紀巻七に、承知五年十月甲寅太政宮二處分ス大宰府例進緋綿紬一百端今定紺紬十端黒緋紬四十端緋紬五十端と見え、又延喜式巻第十五内蔵寮式に、新嘗會節ノ大歌人等ノ装束料緋紬九匹と見えたるを古しとす。又多武峯少将物語に『いと清げなるつむぎを青色に染めて』宇治拾遣物語巻一尼地蔵見奉ることに『尼うれしくてつむぎの衣をぬぎてとらすれば』等も見ゆ・・・」とあり、すでに奈良、平安時代に紬が存在していた事を述べている。
しかし中国の正史で古代日本に関することを紹介した有名な「魏志倭人伝」中には「種木稲紆麻・蠶桑絹績、出細縑緜・・・」とあって稲、紆麻、桑等を植え、蚕を飼い糸をつむいで細密な絹を産していたことが記され、起源ははっきりしないがそうとう古くから紬が織られていたことが知られている。
2、 本場奄美大島紬の起源
奄美大島の発祥については最近考古学的に明らかにされつつあるが開聞神話によると、神代の昔、阿麻弥姑、志仁礼久の2神によって島創りが始められた。奄美の名称も神名阿麻弥の呼び名からきたものであると言われている。
阿麻弥姑はいつも珍絹で頭を覆っており、島の婦女子もその人徳慕いこれにならって珍絹または珍首を使用したとされている。奄美ではその風習が手織りで浮織の「ヒレ」とゆう名で大正末期頃まで使用されていた。この「ヒレ」は徳之島・沖永良部島・与論島等で発見され資料として大切に保存されている。
さて、わが国で発見されている超古文書の1つに「ウエツフミ」というものがある。この「ウエツフミ」には開聞2神による南島経営の様子が記されている。
要約してみると「日向三代の頃、アワナギ、クニアキノ尊とツナナギ・サイカヌシ尊が大工・鍛冶屋・農夫・機織の技術者たち140人を引きつれ、漁師80人に命じて大船10艘に食糧や衣服を積み込ませ、本土より百里離れた南島(奄美)の使し、(中略)技術者の指導で住民に建築・鍛冶・火食・農耕・養蚕・機織・裁縫等それぞれの技法を授け、衣食を与えて生活のあり方を教え、立派な島民となし、国創りをさせた。」とある。
この神話の示すとおりわが奄美では既に紀元前から高度な文化が存在していたことが推察される。
また、シナ隋代を記した歴史叙述書「隋書東夷伝」によれば西暦605年(隋の大葉元年)煬帝は朱寛に命じて海に入り異俗を求めさせた時、朱寛は琉球に至り布甲を奪ってきた。当時倭国の使者小野妹子らがこれを見て「掖久人が使用するもの」と証言した。と記されている。
布甲は現在アイヌが使用している「アツシ」に似て各種の雑毛糸で織られた分厚い兵服とされ、掖久は奄美を含めた南島の総称である。
7世紀といえば奄美の人々が大和朝廷と頻繁に往来し交易をしていた頃で、大和文化の伝来とともに日本文化の染色技術が伝えられ普及していた事が考えられる。
このように奄美に関する古代史の断片で明らかなように、遠い昔から織物や紬が織られていたことが窺い知られる。
ところで最近奄美で考古学の発掘が行われているが、先程発掘調査(昭和52年8月)があったサウチ遺跡の出土品の中から弥生式と推定される「紡錘車」が発見された。また糸をともなう織物の痕跡と思われるヌノメのある土器片が手広遺跡(昭和53年7月)宇宿貝塚(昭和53年8月)等の中から発見されている。
このことは当時すでに織物があったことを立証するものである。
幸い亜熱帯に属する奄美の気候は冬季でも山野に芭蕉・芋麻・桑木等の繊維植物やヒル木・チン木・山桃・椎など染料に使用できる常山緑高木が豊富に自然繁茂している。これ等の素材でわれ等の祖先は製織をしたのであろう。
このように推論してみると大島紬は太古の昔から古代大島紬が織られ、結城紬とともに我が国で最も古い伝統をもつ織物であるということができる。
3、 絣の伝来と背景
大島紬に絣文様が織られるようになったのは、何時、何処からその技術が伝承されたのか明らかでない。
これまで我国における絣の伝来説は、インドで約5千年前に織られた絣が「イカット」の名でインドの貴族文化を飾り長い歴史を経て東南アジアの諸国で織られ大衆化し、14世紀の頃琉球に伝来、奄美を経て江戸後期に日本本土に伝えられたとの説がある。
「奄美大島史」では「古来大島に於て製織せらるる絣紬は起源審かならずと雖も、琉球紬より脱化し来れる事は疑ひなきが如し云々」と記し中国から久米島に絣紬が伝わり、その後に伝えられたように記述されているが、これを証する明らかな文献資料はない。
洪武5年(1371)琉球が中国へはじめて進貢したとき、琉球の芭蕉布に絣柄が織られたとされている。
琉歌「おもろ」にも、空にたなびく横雲を絣にたとえ、「緯雲は神の帯」と唄っている。したがって琉球では14・5世紀頃から紬や芭蕉布に絣の柄が織られたとするのが定説となっている。
文永3年(1266)以降、奄美諸島は琉球と交易のため頻繁に往来するうち絣柄が琉球から奄美へ伝えられたものと思考される。
あるいは南方から北上の途中奄美へ寄港した交易船により直接それがもたらされたのかもしれない。
琉球の絣文様は、琉球独特の動植物の絵文様が多種になっている。
奄美の絣は小絣の点絣であり、小柄が多いのは、琉球の大柄と対照的である。
さらに大島紬や芭蕉布、木綿布などの奄美の文様は昔から花織(紋織)の斜文が基本をなしており、点と線の組み合わせなど、絣の配列においても根本的に相違がある。
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宇宿遺跡は、奄美市笠利町宇宿大籠で1933年に発見された縄文時代中期から中世にかけての複合遺跡(国指定史跡)。
縄文時代の土器や石器、石組住居跡や弥生時代の埋葬跡、グスク時代の溝、中世の火葬墓(骨壺)などが出土している。
弥生時代の埋葬跡からは母子の合葬が発掘され、母体はガラス玉などでできた首飾りを着けていた。
この首飾りは丸玉2個、管玉4個、小玉40個の計46個からなる鉛ガラス製。鉛ガラスは当時中国・朝鮮・北九州のみで製造されていた。また、この首飾りは吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡)から出土したものと類似している。
これらの出土品から、九州〜奄美〜沖縄は当時から盛んに交易があったことが窺える。
2017/9/16(土) 午後 2:33 [ 奄美は人も自然も食物も良かった ]