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暑さに負けて第一砲台から、売店のある所まで戻ったのがそもそも良くなかったようです。 再び足元の良くない山道を登る事になりました。 |
友ヶ島
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最初は、戦争遺跡としてアップしていましたが、あまりにも記事が多くなり今後も友ヶ島関連は増えていきますので独立して書庫を設けました。
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友ヶ島上陸し、西側奥に進むと第二砲台にたどり着きます。 島には、軽自動車サイズの道路が連絡道として残っており、その道を西に進みました。未舗装で所々コンクリートで補強してある足場の悪い道をしばしアップダウンしているとその先に第二砲台跡があります。 この入り口は直ぐに行き止まりでした。小窓から外の日差しが差し込んで薄暗く中を照らしていました。 床には堆積物が溜まって見えにくくなっていますが、床には円形の穴の跡があり、ここにも現役時には揚弾井戸と呼ばれる砲弾供給用の穴があったようです。 その通路の壁にはあつさんのブログで紹介された 矢筈山砲台跡等で紹介された施設の入り口によく似た弾薬庫の入り口がありました。 同世代の他の戦争遺跡の弾薬庫の入り口はこれに似たものが多いので基準規格として批准されているのでしょうか? 壁のアーチ部の下にはこのような穴が有ります。これは大砲発射時に過熱した砲身を冷やす為の水を汲み上げていた井戸だそうです。 島では水の確保が大変だったと思います。 レンガと石の施設にも、時間が経つと共に生命の息吹が芽生えてきていました。二度と死の世界にならないように… |
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2005年08月15日、終戦記念日に和歌山県の友ヶ島に上陸しました。 ここで、友ヶ島について簡単に説明すると、江戸幕府の頃から大阪湾に出入りする船舶を監視する役目を負っていたらしい。その頃の遺構は、あまり残っていないようですが、大阪城を築城した当時の石切場は残っているようです。 明治21年には島は陸軍の軍用地となり、国を守るために対岸の加太町深山に兵隊が住む兵営が作られ、ここ友ヶ島と加太町深山に砲台が築かれました。 その後、この一帯は由良要塞地帯として、太平洋戦争が終わるまで一般人は近づくことも禁止されていました。 終戦後は、各砲台は取り壊され、進駐軍がしばらく演習地として使っていましたが、後に返還されその後、瀬戸内海国立公園の一部となって以後からは、観光地として開発が進められました。 友ヶ島は、小さな島々から構成され、それをまとめて友ヶ島と呼ばれているそうです。 その内、中心の沖ノ島と虎島の要所には第一砲台から第六砲台まで6つの砲台が築かれています。 太平洋戦争中は約かなりの兵隊が駐屯していたらしいです。 砲台跡はレンガ造りで鉄筋コンクリートの丈夫な土台や弾薬庫は残されたままで見学することができます。特に有名な第三砲台跡は大規模で、弾薬庫が残されています。 建物の隙間から、カメラを入れて内部を撮影しました。 木材が所々炭化しているところから、火災があったみたいですが、それが原因で閉鎖されたのでしょうか? 位置的にも良い場所にあるので、整備して資料館にでも転用して欲しいです。 現在、島には資料館はありませんから、尚更そう思いました。 |





