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公園の北側、石屋川トンネルの東側、大阪方面入り口は斜面になって路盤のあったであろう現在の高架の下は駐車場になっていました。 ちょうど橋脚と橋脚の間が、入り口だったようです。その上の部分に何か細い柱が立っていました。 柱はJR西日本によって作られた記念碑でした。 偉業を成し遂げたトンネルのJR西日本の記念碑はひっそりと現在の高架下に佇んでいたのです。 碑文は何も無くただ「旧石屋川トンネル跡」が三面に一面に建てた日しか書いてません。日本で一番最初に掘られたトンネルの扱いにしては淋しい限りです。 さて、この石屋川トンネル(石屋川水路橋)を調べていると、その更に大阪寄りの住吉川と芦屋川も天井川であり、少し後年に石屋川と同じくトンネル構造で作られたらしいとの話しを聞きました。 そこで住吉川に行ってみました。住吉川は石屋川より幅の広い河川です。川の東側にはバブルの時に建ったマンションならぬ億ションと言われた「オーキットコート」が聳え立っています。 その手前、護岸の色が変わっっている場所の下にJRは通っていました。 住吉川は幅が広く水量も多いので、石屋川トンネルよりかなり難航したのではないかと思います。トンネルは長さ50メートルそこそこだったそうです。 よく見ると、JRの通っている部分は川底が高くなっているので、階段状にして流れる水の流れを弱めているようです。 ここも後に複線、複々線化を経て、トンネルは開削され水路橋になっています。暗くてよくわかりません。 阪神淡路大震災の後も両脇の自動車橋は架け替えられていますが、水路橋はそのまま使われているようで中に水路橋を支える橋梁がシルエットで見えています。 さらにここから東に進むと、神戸市を越えて隣の芦屋市に入ったところに芦屋川があります。 ここも、天井川であり同様な構造と聞き行ってみました。 ネットで調べると「芦屋川トンネル」は大半現在進行中の山手幹線の芦屋川との交差する部分のトンネル工事の事が出て来ます。 写真は、神戸側の工事の入り口ですが、自動車道路ですが天井川をトンネルでくぐると言う方法は一緒です。 鉄道用トンネル掘った当時とはかなり違った工法で掘られていると思いますが、難工事のようです。 一方、当時の鉄道用の芦屋川トンネルは、明治9年(1876年)に完成したようです。 石屋川トンネルとの違いは、最初からここは複線用に広く建設されて、当時の日本でレンガで作った組立工事のうちで最も優れたものだったそうです。 芦屋川はさらに川幅が広いです。ちょうどバスの辺りで欄干がきれていますが、この下をJRが走っています。 その分川底がかさ上げされ、段差になっています。 芦屋川トンネルは、全長111.3mでほかのトンネルに比べると一番長いトンネルだったようです。 ここも、現在では石屋川トンネルと同じく後の拡幅工事で線路は複々線になりこのレンガのトンネルは見ることは出来なくなっています。 その水路橋を223系が昔と変わらず走り抜けていきます。 大阪寄り(JR芦屋駅側)から見て見ました。どうしても橋の構造が見たいのですが、中に入るわけにはいきません。 よく見てみるとここは、自動車橋の幅が狭く中が見えています。古びたコンクリートの支柱が三本線路の間に立っています。 たぶんこれが、当時からの水路橋の支柱だと思います。石屋川トンネルが、水路橋に変わった後はこんな感じだったのではないでしょうか? 鉄道の黎明期のトンネルが身近にあったことも驚きですが、出来れば当時を忍ばせる史跡として保存して欲しかったと思います。 |
廃墟・廃線
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JR東海道線六甲道駅から東、大阪方面に進むと神戸市灘区と東灘区の境目を流れている石屋川と言う小さな川があります。 この川は天井川と呼ばれる川で、鉄道開通以前から、石屋川の東側にある住吉川、芦屋川と共に交通の行き来を阻害していました。 明治に入って大阪から神戸間に日本で2番目の鉄道を通す事となった時に、当時の蒸気機関車ではパワーが無く勾配に弱かったことから、この天井側を越えようとするとかなり困難が予想され、迂回しようにも、芦屋辺りからは、六甲山と瀬戸内海が迫り土地が狭くそれも適わないので、勾配を無くす為にこの部分にトンネルを開削してその下に列車を通すことになりました。 その中でも、最初に掘られたのが石屋川トンネルです。1871年(明治4年)7月に竣工し、3年をかけ1874年(明治7年)の鉄道開通で供用が開始されました。 当時の日本に技術ではとても手に負えず、設計はイギリスからの呼び寄せた外国人によって行われたそうです。 その地に行くと高架化されたJRの両脇にトンネルが通っており、そのうち南側のトンネルの右端に石屋川トンネルの石碑があります。 その石碑は灘百選の石碑のひとつで、以下の事が書いてあります。 石屋川トンネル(石屋川隋道) 明治4年に完成した日本最古の川底を通る鉄道トンネル跡。 石屋川は川底が高い天井川で、開通当時、東海道線は地平を走っていたので、川底の下にトンネルを造り、鉄道を不敷設しました。 昭和51年に高架化されました。 灘百選 当時のトンネルは、通常のトンネル工事と違い川底を開削する為、一旦、川の流れを仮の木橋で別な場所に変えてから、川を取り崩し、そこにレンガを積みトンネルを組み立てた後、再び埋め直し、川の流れを戻す事で作られたそうです。 これが当時の写真です。とても狭いトンネルですが、これが日本で初めてのトンネルだったのです。 しかし、東海道線の全通後の1894年(明治27年)には輸送量が増え、東海道線の複線化始まった時に、トンネルの下半分を掘り下げ、卵形だったトンネル壁面を垂直にする工事が行われたそうです。 それによって建築限界の拡幅を確保したのでしょうね。、このような、車両の大型化や複線化の為に行われた嵩下げ工事は鉄道用だけではなく自動車用のトンネルでも行われ、いまだに全国のトンネルではその痕跡は見ることが出来るようです。 話を戻して、石屋川トンネルはその後、さらに1919年(大正8年)には複々線化に対応するための工事が行われ、この時にオリジナルのトンネルは解体されて複々線を支える水路橋となったそうです。 したがって、この時に日本最初のトンネルは解体されたようです。 いろんな資料を探しましたが、当時の複線化の物や水路橋の物は発見できませんでした。 さらに後年1976年(昭和51年)にこの区間の高架化で切り替えとなり水路橋も不要となり使用されなくなったそうです。 その後、災害防止の為に石屋川の地盤強度を高める必要から水路橋は埋め立てられたそうです。 と、言う事は現在、碑文が立っているトンネルは当時の石屋川トンネル、水路橋とは関係ない物なのです。 石屋川トンネルや水路橋は現在の高架のちょうど真下を通っておりこの地図に引いた赤い部分が実際のルートだったのです。 少し上流に上ると、ちょうど石屋川トンネル(石屋川水路橋)の天井と思われる部分がありました。 そこの部分だけ、いつされたのかわかりませんがコンクリートで補強してあります。 これも、当時のものなのか、国鉄が高架にした時に川床破れを防ぐ為に補強されたものなのかわかりませんが、たぶんこの下になるのだと思います。 |
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以前2006年8月24日に国鉄和田岬線神戸中央市場線、兵庫突堤支線の跡に訪問下のですが現在の様子とか、もう一度見たくなって訪問しました。 神戸市兵庫区昭和通りの辺りから分岐し平清盛を祭った清盛塚の南向かいをかすめ、出在家町を通り高松線と言われる大きな通りを横切り兵庫突堤に至る路線で、この兵庫突堤の入り口で、神戸中央市場に入る引込み線が分岐していました。 この線は、1984年(昭和59年)2月頃に廃止されそれ以来25年以上経っています。 2003年頃までは、もう少し東の高松線の交差点まで線路は残っていましたが撤去されたので一切残っていないものと思っていました。 仕事の関係で2006年にこの残存部を見つけましたが、その後行く機会がありませんでした。 |
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そろそろ、私鉄廃線跡を歩くの二巻が出てるかと、本屋を偵察中にこんな本を見付けました。 |
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先日、よくブログにお邪魔させてもらっているYahoo!ブログあつさんの「気ままよろず日記」でJTB出版から出ている、故 宮脇 俊三 編著 「廃線跡を歩く」シリーズの続編のような 寺田 裕一 著書 「私鉄廃線跡を歩く」が発売されたと聞いてネット販売で注文しました。 |





