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まだ、交通機関が整備される近代まで有馬温泉に徒歩で行く人に利用されていました。 その中継地点にあった物のひとつが摩耶観光ホテルだったりします。 そのうちの、表六甲部分は六甲山系で取れる石材やこの水車小屋に往復する牛車が頻繁に使っていたそうです。 そこで、1887年にこの地、山田に在住していた植田庄兵衛が、この有馬道の西側の田園を買上げて、住吉村に寄贈し村道を新設しました。 それがこの右側の道で、当時植田庄兵衛は75歳を越えていたので「千歳道」と名付けたそうです。 この区は今の神戸市の区割りではない様ですが、この会館の裏に水車産業が盛んだったころを偲んで「山田太郎・次郎水車」が作られていると聞き訪れました。 整備される前の住吉川は、今よりもさらに急流で水量もある為に古くから流域に水車業が発展して、多くの水車があったのですが、今はここだけに再現されたものしかないそうです。 今となっては庭石にしかならないようですね。 材料は吉野杉を使っています。油分が多く水に強いからだそうです。水車のほかに酒造りに欠かせない大樽にも使われているそうです。 この太郎水車は樹齢270年の吉野杉の巨木で作られているそうです。 両方ともオブジェの水車で現在は回っているだけのようです。裏にベルト駆動の発電機のような遺構があるので以前は発電に使っていたのかも知れません。 エコロジーの為にも再び何かに利用してはいかがでしょうか? 立地的に住吉川は水車設置に向いてるので、エリアで水車発電所はいかがでしょうか?
[GPS情報URL] http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=%2b34.43.38.43&lon=%2b135.15.29.00&fm=0 |
古いもの・歴史あるもの
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石屋川トンネルを調べている最中に住吉川とJRの交わる所にある小さな公園にこのような水車のオブジェを見つけました。 住吉川に限った事ではありませんが、この近辺の河川は六甲山系の豊富な水量とその高低差を利用した水車が数多くあり、17世紀の昔から菜種油から灘の酒の原料になったお米までいろんな穀物の粉引きをしていたようです。 この住吉川にも約80箇所、1万器の石臼が備えられ粉を引いていました。しかし、度々起こった水害や電力の普及による影響で消えて行き今はどこにも残っていません。 しかし、私が子供の頃にはまだ水車や水車小屋が残っていた事を覚えています。もっとも動いてなく残骸や廃墟でしたが… その最後の水車小屋は1979年頃に火災で焼失したそうです。 その小さな公園には、貴重な当時の写真等がありました。CO2削減の為に水車小屋を見直してもいいように思います。 一番下が最後の水車小屋だったそうです。この水車小屋は長さが18メーターもある大きなもので、写真を良く見るとわずかに写っていますが水車は建物の中央部にあり、水車の直径は5メートルを越えていたそうです。 その水車で得た動力で水車小屋の両脇に臼等をを配置し製粉をしていたようです。 |
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住吉橋を、上流側から見たものです。先の写真から走っていたダンプは6軸の10トンダンプではなく4軸のようです。しかし、2トンダンプではないようです。 住吉橋はかなり古く、どう見てもダンプ道のほうが後年に出来た感じです。乗用車でもキツイ高さなのに、ここをダンプが通っていたと言われても多くの人が疑問に思ってしまうのも納得できます。 こちらは山手幹線が通る水道橋です。同じ山手幹線が石屋川にかかる橋のすぐ北隣も水道橋と言う橋が架かっており、そのさらに西側、同じ軸線上の神戸市灘区にも水道筋商店街があるので何か関係があるのかもしれません。
そしていよいよダンプ道の終点です。この先に見えているのが白鶴美術館です。
白鶴美術館は、白鶴酒造所蔵の美術館で、第二次世界大戦以前からの歴史をもつ、由緒ある美術館です。この下から、当時の渦森山の宅地開発で発生した土砂を運び出していたのです。 この河川の東側に小さな公園があります。この住吉川を走っていたダンプ道については、この公園の入り口に小さな看板に数行書かれているのみです。 後に建設大臣から「手作り郷土賞」を貰ったそうですが、それにしてはあまりにも資料が少ないのでもっと改善して欲しいと思います。 |
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先日の石屋川トンネルを見に行った時に、隣の住吉川の天井川の両サイドの遊歩道が「ダンプ道」と呼ばれているのを思い出しました。 社会科の授業で「山、海へ行く」のキャッチフレーズで行われた「神戸方式」「株式会社神戸」と呼ばれていた時代の事を習った時に聞いたのだと思います。 一つの事業で二つの土地を手に入れたとか、これからの自治体の進み行く姿とか散々もてはやされた時代のお話です。 今では、大半の自治体が赤字化の道をたどり、それはこの神戸市も例外ではありません。 それはさて置いて、1963年この住吉川の上流の渦森山の宅地開発を始める事になりました。 その土砂を住吉川の臨海部埋め立てに輸送するに関して輸送手段の問題が生じました。いろいろな案が出て、河川敷にベルトコンベアーを引く案も出たようですが、輸送量と建設費を考えたところ、ダンプによる人海作戦でピストン輸送される事となりました。 当時交通戦争とも言われた交通事故の増加や環境に与える影響が考えられ、都市部の道路を縦断するのははばかられたので、河川敷を整備し、そこにダンプを通らせる案が浮上し住吉川の両岸が整備され、ダンプはそこを走行する事になりました。 一説によると、ダンプ道は6年間使用され延べ190万回往復した話もあります。 この削られた山は1974年に渦森団地となりました。 運ばれた土砂は主に神戸市東灘区の魚崎浜町通称「第三工区」となりました。 このダンプに行き交ったダンプ道は1977年頃に再び遊歩道として開放され今日に至っているそうです。 まずは海側からたどって行きます。ここは住吉川の河口で、六甲ライナーの南魚崎駅が見えています。 河川の両側が盛り上がりが、河中から地上に車が上がっていた事を物語っています。ここからダンプは、第三項句のほうに土砂を運んでいったようなのですが、地元の人から定かでない話しを聞きました。 その方、60歳後半ぐらいの男性の話なのですが、この六甲ライナーのルートはベルとコンベアー方式にしたときの計画線上だと言うのです。 確かにここの以外の開拓地である鶴甲山や高倉山の土砂採取はベルトコンベアー方式が取られ、この渦森山もその公算が強かったと思いますが、そうだったのでしょうか? またこの方は、この魚崎南駅のこの場所から、土砂の一部を艀にを移し変えて運んでいたと言われました。 河中から上がってこの場所までなだらかな傾斜ですし、横にはべるとコンベアー計画線と言う六甲ライナーの橋脚があります。 確かにそれっぽく思えます。 さて、それでは河口から上流に向かうことにします。上流側にはまず大きな障害物である国道43号線と阪神高速3号神戸線が通る住吉川橋あります。 さらにその上流は阪神電車が通っています。住吉川橋から上流を見たものですが。 ちょうど上と同じ地点の住吉川橋から撮影した当時の写真が手に入りましたが、この当時はまだ何も無かったのですね。確かにダンプが通っていた事がわかります。 |



