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加古川市尾上町口里の浜の宮公園に、旧陸軍の大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊の兵舎跡があると聞いて訪問しました。 カーナビに浜の宮公園を入力すると、えらく狭い道を行かされ浜の宮天神社の正面から、浜の宮小学校沿いに公園に着けさせられました。 これだからカーナビは信用できないとか思いながら車を降りると直ぐに、なにやら大きなコンクリートの柱が横倒しになっているのが目に入りました。 かなり大きなコンクリートの柱です。この柱は旧陸軍航空通信学校尾上教育隊の西門の門柱だったそうです。 一本だけしかありません…普通二本ではないかと思いで付近を見る遠くの方松林の中に、同じくコンクリート製の基礎らしき物が見えました。 他の柱は持ち去られてしまったのでしょうか? そちらの方に行くと、松林の中に建物の基礎らしき物が伸びていました。 第二次大戦中に陸軍航空通信学校尾上教育隊が置かれて、約千五百人の兵士が駐屯していた場所だそうです。 ここには、大きな二階建ての木造兵舎がたくさん並んでいた場所で、戦後しばらくは中学校の校舎になっていたそうです。 その後取り壊され、松の木が生えて基礎は埋もれていったそうです。 更に奥に歩いていくと、何か大きな塊が見えてきました。これはどうやら流し台のようです。 ホームレスが、空き缶やらの荷物置き場にしているようで見苦しいのですが、これも当時の施設だったのでしょうか? コンクリート製なのでそう思いたいのですが、どうなんでしょうか? 約千五百人もの人員が居ただけにかなり大きかった事が偲ばれます。その先にも基礎の跡がありました。 大阪陸軍航空通信学校と言うだけに、この公園の南側には滑走路まであったようですが、よくわかりませんでした。 松林のあちらこちらに建物の基礎跡があり当時の施設の大きさが偲ばれます。 中学校時代は食糧事情が悪く、勉学より校庭等に田畑を作り飢えをしのいでいたと言う話しもありました。 南側の田畑になっているところに飛行場があったのかも知れません。 1950年代に中学校が廃校した後、しばらく放置されていたそうですが、関係者が松を植林したようです。 松が茂り、緑が戻って戦争の記憶が消えつつあるようです。現在は基礎跡は保存されその痕跡を現在に伝えています。 訓練をする兵士の号令に変わり、休日には子供たちの声が響く、公園に戦争の悲惨な話しは癒されていくのでしょうか? 旧陸軍 大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊校舎跡
[GPS情報URL] http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=%2b34.44.09.66&lon=%2b134.50.00.43&fm=0 |
戦争遺跡
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安島 太佳由さんの本に刺激されたので、戦争関係の遺跡を見に行きました。 先ずは、旧陸軍神野弾薬庫跡です。 現在は加古川交通刑務所になっているところです。 建設当時には、JR加古川駅からこの弾薬庫まで国鉄の引き込み線があったそうです。 戦後も暫く残ってたので、加古川刑務所専用線と呼ばれたそうですが、実際に収監者を乗せて走った事はないそうです。 この場所には弾薬庫の他に、砲弾製造工場等の施設が、2007年の1月まで9棟程残っていたそうです。 その地に何か残っていないか行ってみました。 映画のようにライフルを背中にはしょった監視員がいそうなものだが、どうやら監視カメラのみのようです。 保存運動が行われる前に潰してしまおうと言うお役所仕事ではないかとうがった見方をしてしまいます。 なんだかよくわからないのですが、井戸のような雰囲気がします。 どうやら、勝手口のところに風呂場を増設したような感じです。 ここからなら中に入れそうですが、所有者が所有者だけに別な所に入れられそうなので今回は入りませんでした。 この建物は果たして… 粗末な門ですが、表札が無く中には一般住宅藻建っているので刑務所のものにしては大変怪しいです。 これも、大戦中からのものでしょうか? この引込み線は、加古川駅から分岐しこの加古川刑務所まで伸びていたのですが、かなり前に山陽本線と加古川線の高架化の為に取り壊され、さらに道路化されて見る影も無いのですが、郵便局の横の川に当時の橋げたが残っていると聞き見てみる事にしました。 どうにか横から撮影しました。橋げたは、今は直接かかっている橋の半分の幅しかないもので、今の橋の下に残っているのですが、防錆塗装されかなり保存状態は良好でした。 このまま、人知れずでも良いので残っていて欲しいものです。 |
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中学校から高校に上がる時にこの近くにある農業高校が進学の候補に挙がりました。 もちろんそんな頃に、インターネットはありませんが、飛行場跡があるという話しを聞いていました。 他に、旧軍の演習地や弾薬工場跡もあるらしいのですが、忘却のかなたに行っていました。 それから数十年、滋賀県八日市の掩体壕(未編集)、大阪府八尾市八尾空港の偽装掩体壕(失敗)の取材した後に、それを思い出し、北条鉄道に訪問した折に行ってみました。 、北条鉄道の法華口駅からそう離れていない場所にあります。 法華口駅は、ローカルな駅で駅舎は木造の無人駅です。 ここに使われていないホームがありかなり昔は施設が大きかった名残があります。 1958年以前までは、列車交換設備と貨物側線があり、ここから、飛行場跡の隣にあった軍需工場に向かって引込み線があったそうです。 その引込み線跡は、今となってはわからなくなっています。 元を正せば、伊丹空港も八尾空港も太平洋戦争の時代のものですが、この鶉野飛行場は、当時のままの形で残っているのです。 1942年(昭和17年)12月ごろ着工し、百戸以上の民家を立ち退かせて、近隣住民や当時日本に連行された朝鮮人労働者らを大量動員し、翌年10月に突貫工事の果てに完成させたそうです。 その翌月、パイロット志願の兵士を訓練する姫路海軍航空隊がここに設立されたとの記述があります。 滑走路自体には簡単なロープで遮ってありますが、横切る道路のガードレールが邪魔で実際には固定翼機は着陸できない現状となっています。 1944年頃にコンクリート舗装になり、長さ1200ⅿ 幅60mの滑走路田の大きさがあったそうです。 今の飛行機ではかなりつらい長さだと思います。ちなみに神戸空港は倍以上の2500mあります。 一方、滑走路の南西側に川西航空機(現・新明和工業)の工場が建てられ、戦闘機「紫電」「紫電改」を組み立ててたそうです。 滑走路は練習飛行のほか、ここで完成した戦闘機の試験飛行や搬出にも使われたようです。 西宮の鳴尾にあった飛行場も、阪神電車武庫川線で南に下った先にも川西航空機(現・新明和工業)の工場があったそうで同じような境遇だったと考えられます。 飛行場周辺には、戦闘機を米軍の目から隠すための掩体(えんたい)壕を多数造ったそうですが、この日は確認する事が出来ませんでした。 やはり戦後取り壊されたのでしょうか?以前一基だけ残っているような話しを聞いたのですが… これは姫路海軍航空隊で使われた水道管だそうです。 一本が400mの規格の鋳鉄管でつながっていたようです。 よく残っていたものですね。 終戦間際は、この滑走路の為にこの辺りは、爆撃や機銃掃射に何度も見舞われ、犠牲者も出たそうです。 二度とこのような悲劇は繰り返さないように祈ります。 |
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先程の篠山警察署の北側から広大な地域を占めて、ここにその歩兵第七十連隊」が置かれていそうです。 その広さは約35ヘクタールもあったそうです。地図を表示させるとそれとなくその広大な敷地がわかります。 ここに1000人規模の兵隊が集められたそうです。 基地は1906年頃から1945年の敗戦まで38年間もこの地にあったそうです。 当時の訓練は厳しいもので、ここで鍛えられた兵士は「丹波の鬼連隊」と呼ばれるほど勇猛果敢な兵士になったそうです。 大きな基地なのでたくさんの部隊があったようです。 パッと調べてみても、篠山連隊は、歩兵第七十連隊から歩兵第百七十連隊、歩兵第二百十六連隊、中部第六十八連隊、中部第百十連隊などとたくさんあったようで、ここから出征した将兵の多くが戦死したそうです。 これは割りと新しそうな石碑です。この部隊のみヤフーの検索では出て来なかったので特別な部隊かもしれませんね。 しかし、記事のアップ時に調べていくと、どうやら奥に旧兵舎の一部が見えるらしいので、次回訪問時には確認したいです。 |
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いつだったか数年前に鳥取砂丘に行った時に砲台跡と言う表示を見つけました。 それは、このように道路標識に書いてあるのみで、他にに記述はありません。いったいこれは何なのか訪問してみました。 行く前にネットで検索してみたのですが探し方が悪いのかこれと言ったヒットがありませんでした。
太平洋戦争時のものなのか、それ以前のものなのかもわからずでした。
鳥取砂丘は日本三大砂丘のひとつで、山陰海岸国立公園の特別保護地区に指定されています。日本最大の砂丘とも言われ1955年に国の天然記念物に指定され、2007年には日本の地質百選に選定されたそうですが、この砂丘のどこに砲台跡があるのでしょうか? 既に、砂の下なんでしょうか?先ほどの看板から700メートルと書いてあるのでそんなに遠くではありません。 思ったよりさびしい境内です。この社務所に2人神社の関係者の方が居られましたが、なんと砲台跡があるのは知っていたようですが、行った事も歴史も知らないとの事でした。 「ちょっと調べないかんなぁ」そう言ってましたが、それで良いのでしょうか?一応は護国神社の方なのですから、知っておいて欲しかったです。 境内の左側には旧日本陸軍の九二式重機関銃や水筒といった1945年(昭和20年)の太平洋戦争の末期フィリピンのルソン島バレテ峠の激戦地において、鉄兵団が米軍と交戦したときに日本兵が使ったものが、収集され展示されていました。 車に戻ろうとした時に近所の方が散歩していました。砲台跡の事を聞くとかなり前に無くなったと教えてくれました。 太平洋戦争当時のもので、この辺一帯に砲台があったそうです。なにか残っていませんかと聞いたら、指差して「これ!」と言われたのが砂丘パレスの前のロータリー…確かにちょっと変な位置にはありますが灯台下暗しです。 このロータリーの枠が砲台の枠?と疑問がわきますが、よくブログに来てくださる気ままよろず日記のあつさんがそんなパターンの遺跡を見つけているのでそうかも知れない…気が付かないわけだ。 有島一郎と一里松で検索をかけると日本海新聞に以下のような記事がありました。 「一里松」守れ 鳥取砂丘旧砲台の有島歌碑移転へ 有島武郎の歌碑と一里松=鳥取市浜坂の旧砲台 鳥取砂丘の旧砲台(鳥取市浜坂)にある一本のクロマツ「一里松」を守ろうと、鳥取市は五日までに、作家・有島武郎の歌碑を移転する方針を決めた。歌碑が砂の流れを止め、隣接するマツを枯らせてしまう可能性があるためで、地元住民の要望を受け入れた。十月には歌碑を観光客にも見えやすい道路沿いに移転したい考え。 マツは高さ約八メートル、幹回り約三メートル。枝幅は東西に約十五メートル伸びており、地下約〇・五メートルで分岐しているため二本のように見える。樹齢は百五十年以上で、市の銘木・古木にも選ばれている。 「歌碑があるため砂がマツの根元に堆積(たいせき)し、呼吸ができなくなって枯れてしまう」。浜坂地区の住民で樹木医の吉岡武雄さんは訴える。以前は二十メートルほど離れた場所に別に一本のクロマツが生えていたが、枯れたために伐採され、一里松も葉の色が黄色味を帯びるなど衰退の兆候が現れているという。 クロマツの保全活動に取り組む地元住民の有志は、ことし三月と五月の二回、歌碑の移転を市に要望。市は今月二日、現地を視察し、高さ約三・五メートル、幅一メートルの歌碑が風を防いでいるため、マツの根元に約一メートル以上の砂が堆積している現状を確認した。 歌碑は一九五九年に建てられ、有島武郎が心中する約一カ月前に鳥取砂丘を訪れて詠んだ短歌「浜坂の遠き砂丘の中にしてさびしき我を見いでけるかも」が記されている。市は歌碑を観光客にも見えやすいよう、マツの北側から南側の道路沿いに移す方向で検討している。と言うのがありました、その一里松のところが砲台だったというのです。 |





