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私は、『気遣い、思いやり』の基本は、相手を理解することだと考えている。
なぜか?
それは相手への理解なくしての『気遣い、思いやり』は空ぶりしかねないと感じているからだ。
場合によると、理解のない『気遣い』が相手の心証を悪くしかねないし、
さらには、自身の『気遣い』がムシされる(気付かれない)事でキズつく事もあるからだ。
(ちなみに私は傷つかない方です。(笑)別に自分がしたいからしているからと思っているからで、特に何とも思わないようになりつつあります。つまり、見返りを求めなくなったとい事ですね。以前は何々をしたから的な感覚がありました。)
私の良く主張する『思いやり、気遣い』の対象は、良く知っている人、回りの人に対してである。
ちなみに、沖縄の基地問題で、『思いやり、気遣い』を求めるのは、彼らが良く知っている日本人(同胞)だと考えているからだ。
が、それも程度差問題で、生活苦しいのって言われても頑張って下さいとしか言わないだろう。
(状況にもよりますが・・・、生活困窮者は各地にいるので、もし助けるなら全体のバランスを見て手助けしたいと考えています。郵便局の非正規は助け、他は助けないという公平を欠くような処遇に私は疑問を抱いく性質です。)
ほとんどの人がそうだと思うが、
私の『思いやり、気遣い』にも当然のように粗密があり、関係、関連性、そして私の相手への理解と、相手からの私への理解があれば、より濃密になってゆく場合が多いと感じている。(所謂、縁)
つまりは、『お節介』的な関係、気が置けない仲になるだろう。
なぜ?、『気が置けない仲』になれるかと言うと、互いに理解し合い、信頼しあえる事が出来るからだと考えている。
理解しているからこそ、相手の真意も伝わるし、信頼しているこそ、相手の苦言、暴言を笑って許す事が出来るのだろう。
これが、互いに理解がなく、程度差によるが信頼関係が築かれていない時に発せられた苦言、暴言を許す事が出来るほど、人は度量が大きいのだろうか?
多くは、ココロない発言に傷つき、憤りを覚える事と思う。
が、これも相手への理解(相手も私を理解している)、信頼(相手も私を信頼している)がある場合、まったく違った様相を示してくると思う。
つまり、私が一連の記事で述べている『思いやり、気遣い』とは相手をもっと理解しようと呼びかけているに等しいと私自身は考えている。
相手への理解(互いの理解)なくしての『思いやり、気遣い』など空虚なモノである。
コンビニ店員のいっらしゃいませ、ありがとうございましたに、空虚な響きを感じるのも、一つの理由に、互いに相手への理解がないからだと思っている。
(もしくは相手を理解しようとしていないからかな?これはこれで多種多様な理由があると感じてはいます。)
もっとも互いを理解し合っているハズの家族において、互いに理解、信頼しあえているかというと。。。
日本人は暗黙のうちに互いの理解、信頼を求めあっている。
男の『背中で語る』
女性の『変化球』←詳しくはhttp://blogs.yahoo.co.jp/k99999five9/25071222.html
上記状況が成り立つ前提は相互の理解だが、人は他人の事を簡単に理解できるほど、賢くないし、まして夫婦同士でさえスレ違うのに、他人に対し真の『思いやり、気遣い』を発揮出来るのだろうか?
以前の日本は一億総中流で、同じ立場、同じ環境、同じ年収、同じ家族構成、同じ。。。つまりは極めて同質性の高い社会であったと思う。
だからこそ、その高い同質性故に、相手へ(ある程度)の理解が容易であり、それが『思いやり、気遣い』を発揮し易くする土壌になっていたのだが、今や多様性、異なる価値観が混在するカオスの世界だ。(現在進行形、他の国と比べれば、まだまだ同質的ですが・・・)
そんな時代に、互いに理解しあわない状態で、互いの立場を忖度せず、過度な『思いやり、気遣い』を互いに求めあっても、ギスギスするだけである。
そんな状態で互いに私の気持ちを慮れと言いあっているのだが・・・
『何か息苦しい時代だなぁ。』
って、
感じる人は多いのではないかと思うのだが、如何であろうか?
密度の高い、人間同士なら、その『思いやり、気遣い』は遺憾なく発揮出来る可能性があるが、回りの人、総てと濃密な人間関係が築けるかと言うと、なかなか難しいのが現実だ。
ところで、『思いやり、気遣い』の基本である、相手への理解は何でもたらされるかと言うと、私は『教養』が基本であると考えている。
相手への理解とは、モノ(状況、立場、職業、etc。。。)を識っていないと理解し難いからだ。
子どもに『思いやり、気遣い』が発揮し難いのは経験値、教養がないからである。
だから、時に子ども達のコトバや行動は、非常に残酷な事、『思いやり、気遣い』のない事をする事がある。
じゃ、経験値、教養のあるハズの私達、大人(私も)は、あるのかと言うと。。。
相互に理解すべく努めるべきだと思うが、不完全なる我々では限界があるだろう。
ならば、互いの不理解(思いやり、気遣いのなさ)を補える手段、思想の構築こそが必要と感じるのだが。。。
個人的にだが、その答えは
古代ローマの理想で「クレメンティア」にこそあるのではなかと思っている。
次回、続く
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「教養」とは「記号性」ということでしょうか。
だとすると、時としてそのものを「そのものとして」理解することをかえって妨げることもあるような・・・
まあ途中で口挟んでも微妙なことになりますね、続くという事なのでまた。
2010/6/19(土) 午前 6:50
教養とは『ものさし』です。
識らないと、測りようがないですよね。
同時に気づきません。
おもちゃを取り上げる親の気持ちを、幼い子どもが理解できないのは『ものさし』が短いからと思っています。
「そのものとして」として理解を妨げるとは、知識があることで先入観を持ってしまう事でしょうか?
2010/6/19(土) 午前 8:02 [ K9 ]
「識らない」と「理解/認識できない」のが人間です。
使う言葉の少ない人間(赤ん坊でも大人でも)は、結果考える幅が狭くなりますよね。
非常に大きな話になってきて面白いです。
次回楽しみにしています^^
ポチ☆
2010/6/19(土) 午前 11:20
ASKAママさんへ
ポチありがとうございます。
『思いやり』とは理解であり、その為の『ものさし』として教養が必要だと思っています。
しかし、全員に高い教養があれば良いのですが、明らかに、その教養に粗密があるのは事実です。
鳩山さんは日本人、全員に高い『教養』を求めたフシがありますが、それが現実的でないのは、退陣した事で証明されいます。
本当はもう少し、確信犯的に『思いやり』だけを議論しようと思っていたのですが。。。(笑)
寛容性がある『思いやり』とない『思いやり』では、そこに至るプロセスが違います。
前者はその道は平坦ですが、後者はそこに至るまでに心理的葛藤を必要とします。
同じ結果を得るなら、どちらが楽かと言うと、やはり前者だとは思います。
ちなみに続きで過去のキリストを批判的に論述していますが、その寛容性をもって許して下さいませ。
2010/6/19(土) 午後 0:26 [ K9 ]
そういうイメージでした。
すごい単純な例で言うと、「やる気が大切」と教えられた人が、効率化による拡大を模索する人を「手抜き野郎」と思ってしまうような感じです。
「教養」というのは、ある意味ものさしを伸ばすことじゃなく特定の長さにそろえることかも知れません。
先の記事を読んだあとのコメですが、「教養」って運用次第では寛容性をなくすものなんじゃないかと。
そもそも、今盛んに言われている「教育の充実」と言うものが、寛容性を高めるものなのか、それとも「異端」の発生を抑えるものなのか。
2010/6/19(土) 午後 0:42
Yadaさんへ
御見識に感服致します。この記事の補足を頂きありがとうございます。(笑)
>先の記事を読んだあとのコメですが、「教養」って運用次第では寛容性をなくすものなんじゃないかと。
教養とは常識ではないんですよ。
いろいろな常識を知る事で先入観を排除すると言い換えても良いです。
そもそも世の常識程、多種多様なモノはありません。
多くは、その民族の住む環境を基に作られていますから。
その常識の背景、考え方を識る事こそが重要であるかと。
常識の背景を知れば、その時代背景の変遷を感じるでしょうし、物事に対する考え方がソフトに寛容になると思います。
教養が高いけど、不寛容な方は、真に教養があるとは言わず、ただ、単に常識を知っているだけです。
その常識とはおそらく狭い範囲で通用する知識でしょう。
それを教養とは言いたくありません。
2010/6/19(土) 午後 1:48 [ K9 ]
礼儀作法等(出来れば多種多様なほど望ましい)の理由、背景を知っている事が教養であり、結果としての礼儀作法を知っているのは、ただの知識と思っています。
上辺だけの常識を知る『教養』でなく、その背景を知り、理解出来る『教養』こそを私は求めたいです。
2010/6/19(土) 午後 1:48 [ K9 ]