|
北方領土の遠因を作った秀才政治家。
誰であろう、それは松平定信の事である。
寛政の改革を行い、その改革に見事に失敗し、日本の幕末に向けた政治混乱の遠因を作った秀才政治家。
改革とは名ばっかりの旧来に戻す改革を行い、その無理は当然のように、現実に負けた。
失意の中で隠棲する事となった彼の眼には世界はなく、ただ、神君家康公の、吉宗公の時代に戻りたかっただけの箱庭のような現実感の感じない理想。
環境が変化したのに関わらず昔に戻るという理想は、当然のように破綻した。
彼の政治は
『白川の清き流れに魚棲まず、濁れる田沼いまは恋いしき』と揶揄されたように、現実を無視した政治ではあったようである。
日本の教科書では定信の行なった一連の改革を江戸時代の三大改革と並び称し記述しているが、守旧派の改革を改革と言ってよいのか私には理解できないし、これほど歴史的事実を改ざんした記述、表現はないものと思っている。
文字文化を庶民から奪おうとし、文盲化政策を行うとした政治家でもあり、その動機は朝鮮の両班と同じ理由であるほど頑迷な政治家。
近年、田沼意次の評価が高まると同時に、その歴史的評価が下がって来ている守旧政治家、松平定信。
彼の理想は神君家康公の作った祖法を守る事だけだったのであろう。
そして、その祖法とは彼の行なった対外政策にも現れている。
彼が現代に生きる我々に一番影響を与えているのは、この対外政策である。
定信は祖法を大事にするあまり、海外政策自体を放棄させたのである。(失笑)
江戸初期に戻れ。
蝦夷地を含む北方探検や開拓を総て取りやめさせ、あまつさえ関係者を処断(刑死)させるほど、その政策は苛烈を極め、その結果、日本の蝦夷地開拓は大いに遅れをとり、本格的な開拓は明治まで時を待たねばならぬほどの遅れを喫する事になってしまった。
天保の飢饉の衝撃も蝦夷地開拓(開拓の進んだ北海道は、今や日本一の米どころです。当時の試算でも200〜300万石級の潜在能力があるとみられていました。)が進んでいれば、また違った展開を見せただろうが、愚かにも松平定信は蝦夷地開拓における動きの総てを停止させてしまった。
そして何よりも日本の北方探検を取り止めさせ、日露の領土問題の遠因にさせてしまったのが、この人、松平定信でもある。
日本が国後を日本固有の領土と主張出来るのも、最上徳内が国後、択捉に碑文を建てたからである。
そして、その最上徳内を松平定信は弾圧し、刑死寸前まで持って行くのだから、その怨念、情念の凄まじさに嫌悪感を感じてしまう。
最上徳内の場合、武士階級でなかった為、身分制度の再構築を図る定信にとって二重に気に障る存在だったのだろう。
他にも領土問題(外交関連)で定信の犯した失敗は多く。
ロシアの脅威を警鐘した林子平の『海国兵談』(海防の必要性を説いた書籍)、『三国通覧図説』等を発禁し、子平を禁固刑に処すなど、海外情勢については無知無能の極みでもあった。
明治維新時における朝鮮王朝のような頑迷さを定信の主張には感じてしまう。
後に林子平の書籍は海外に渡り、黒船来航時における領土交渉、小笠原列島帰属問題におけるの有力な証拠ともなった。
もし、林子平がこれら書物を著していなければ、小笠原列島はアメリカのモノとして帰属していたかも知れないホド、日本にとって子平は大恩人でもある。
そんな日本の恩人、子平や徳内を弾圧した政治家が定信である。
江戸幕府には残念ながら領土保全に関する意識が希薄であり、世界の常識を知らないが故に、危うく小笠原や北方領土全般を奪われる所だったのだが、その遠因に世界の常識(世界の中の日本の意識が皆無)にも背を向けさせ、ただ、祖法のみを守る事に腐心させた定信の影響を感じてしまう。
その無知は後にアメリカにつけ込まれ、金と銀の交換比率を間違えるという致命的な失策に及び、日本の財貨を大いに失わせた事にもなった。(この経済的混乱により日本は困窮する。幕末期に日本のGDPの20%が失われた原因の一つ)
定信自体は日本に善き事と信じ、身命を賭して改革(過去に戻す)にあたったようだが、その結果は見るも無残なモノであった。
身命を賭して政治にあたった過去の日本の政治指導者を批判するなと日本の過去の戦争に関してコメントを頂いた事があるが、身命を賭すだけで良しとするのも、それはそれで問題だろう。
最も、今の菅政権と比較すると定信の責任感が好ましく感じもするが、その行なった結果は、どっちも変わらない破滅・破綻。
そして、その影響、身命を賭して行なわれた定信や戦前の政治指導者の政治決断の影響は現在を生きる我々にも与え続けている。
歴史は断続的でなく継続的だ。
歴史を学び現在に、そして未来に繋げて欲しい。
|
政治家寸評
[ リスト ]






「一生懸命」とか「良かれと思って」とかを評価するの、いい加減大概にして欲しいと思います。
良かれと思って一生懸命やって結果滅茶苦茶になったら、そりゃ政治家や経営者としてダメでしょう。
だけど、一生懸命良かれと思ってやった結果だったりすると、それをなかなか批判しにくい空気もまだ感じます。
・・・・・・平社員なんかは、良かれと思って一生懸命やっても結果だめならクビなんですけどね・・・・・・
ただ、江戸時代はとにかく安定と停滞を「しなければならない」前提で作られた社会の仕組みでしたから、他文明との接触の可能性のある拡大は、当時の仕組みの中では実際に危険性があったかもしれません。
もしここで日本の開拓農民がロシアの騎兵隊なんかと遭遇していれば、黒船ショックはこの時点で起こっていたでしょう。
個人的には起こっていて欲しかった気持ちもなくはないですが、しかしこの判断が「過ちだったかどうか」、これは結構難しいかも知れない感じもなくはありません。
田沼さんが先進的で松平さんが反動的、これもまたあくまでも平成の感覚からの評価かもしれません。
2010/11/7(日) 午後 6:52
>危険性があったかもしれません。
>黒船ショック
開拓するしないに関わらず実は起こっています。
寛政期にラクスマンが開国を求めやって来ていますし、レザノフとは戦争をしています。
当時、蝦夷地は日本にとって辺境であり、ロシアにとってはさらに辺境でしたので、全面戦争に至りませんでしたけど、黒船ショックに近い事は起こっています。
但し、目覚めませんでしたけど。鈍感なんです。先送りしました。
>松平さんが反動的、これもまたあくまでも平成の感覚からの評価かもしれません。
武士階級による支配の永続化を望んだ定信が行なった政策は、相対的に武士階級より力を持ち始めた庶民階級への弾圧です。
曰く、武士が弱くなったのは庶民が知識を持ちカネを稼ぐからだ。
やつらはコメだけ作れば良い。
商品経済が発達し始めた日本の経済はお陰さまで大不況。
さすがに愚民化政策(文字文化の否定)は御自分の領地だけで諦めたようですけど。
平成の感覚でなく、当時の感覚でも反発を受けましたから、白河の清き流れに魚すまずと揶揄されたのでしょうね。
思いっきり過ちです。
2010/11/8(月) 午後 11:25 [ K9 ]
過去に戻れって江戸初期1620年頃の政治経済体制に戻したかったのようですが、それを反動的の一言で片付けて良いのやら。
寛政の改革が行なわれたのは、フランス革命時です。
世界史の大変動期。
イギリスは世界各地で植民地を作り奴隷貿易に勤しんでいましたが、日本が鎖国したくても世界が許さない状況になって来ています。
ヨーロッパ列強は、フランス革命、ナポレオン戦争を経て、その国の在り様を国民国家体制に変革していきます。
日本が国民国家の体裁を整えたのが明治維新でしたが、松平定信が過去に戻れと叫んでいる時、海の彼方では大地殻変動が起きていました。
彼には世界がなく日本(徳川ぐらい)すらなく、目に見える世界だけだったようです。
2010/11/8(月) 午後 11:33 [ K9 ]