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寛容性
他者の価値観や行動を容認する心理特性。
寛容性の在る無しとは、怒りに対する沸点が高い(感じ難い)低い(感じ易い)と、言い換える事も出来ると思う。
憤り、怒り自体がなければ、我慢する必要もないわけで、社会全体がギスギスする必要もないと私は考えている。
勿論、限度はあるが、
子どもはギャーギャー煩いのは当然であって、その行動自体(大人の常識がない子どもに対し=教養のない子ども)を咎めるのは難しいだろうと私は考える。
その一方で、寛容性が低くなった日本人は、煩いその事、自体を責める事が多々ある。
その子どもを注意しない親に対しては、十分、その理由になると思うが、問題は子どもが煩い事自体を不機嫌と感じる大人が増えている事だ。
最近は電車やホームで飲み食いしている事を非難する大人が増えているが、それも同じである。(満員電車はわかるが。。。)
喫煙者と禁煙者の会話も同じだ。
総てが自己の価値観で世の中を俯瞰しており、その価値観を外れるモノに対して受容性が著しく低くなっている気がするのだ。
だから、国母君の服装問題のように互いに、互いの価値観を押し付け合う、醜い争いになるのだろう。
(国の代表として、国民の想いに応える公人の義務がある国母君が、国民の疑問に対し『ちっ、うるせなぁ〜』と答えたのが問題であって服装は枝葉)
互いに異なる価値観の基、互いに自己の価値を基準に『気遣い、思いやり』を求めても、すれ違うだけである。
もう少し、異なるモノに対する受容性、その根底にある寛容性が、私は日本社会に必要ではないかと感じている。
寛容性が低く、怒りや憤りに対する沸点が低い状態で、ただ、闇雲に『思いやり』だけを求めあっても、おそらく余計に社会がギスギスする結果になるだけだ。
ヨーロッパ社会の根底を形作った古代ローマ帝国は、その高い寛容性(クレメンティア)をもって、ヨーロッパという国の基本を築いた。
彼らは、征服した民族の文化、慣習、宗教を認める事で、彼らを同胞とし、その支配領域を広げて言った。
おそらく、その高い寛容性ゆえに、その支配はかなり穏やかであったと、私は考えている。
同時に多文化、異なる価値観を受容できる社会は一般に自由で活力があると言われているから、さぞかし古代ローマ時代は活力に富む時代であったと推測している。
また、この穏やかな統治と、緩やかな同族化はローマに征服されたにハズの民族の国々に対し、ローマ帝国の継承者を名乗らせる原動力にもなっている。
一方、古代ローマ帝国を精神的に征服したキリストの考えはどうかと言うと、民族の文化、習慣、特に宗教は認めず、ひたすら自己の価値観を押し付ける非寛容な政策を過去、行って来た。
そして、その非寛容な政策は中世暗黒時代と言う文明の停滞期をヨーロッパに招く原動力ともなり、長期間にわたりヨーロッパは世界の途上国として苦しむ事とになったのだが、何とも皮肉な話である。
文明の先進国が、文明の後進国になったのである。
街道や水道、下水道等が完備されていたローマ時代は、過去になり、元のインフラが整備されるのにヨーロッパは相当な時を待つ必要があったわけだ。
そして、古代ローマ帝国と違い、キリストに征服された国々が、キリストの後継者を名乗らないのは彼らの排他的性格ゆえだ。
何せ、同じキリストでも宗派が違うだけで未だにいがみ合っている状態だ。
キリスト教は、キリスト教(同じ宗派に属していない異端も含む)に属していない人達を永く人と見ていなかった。
だから、黒人奴隷(家畜と同じ)がいても論理的に破綻しなかったし、異教徒を殺しても、それは殺人と認めなかったわけである。
キリストにとって命とは永く不平等であったのだ。
その教義が変わったのは、つい最近の話である事に注意を促したい。(近代において初めて教義が変わり始めた。)
今、世界はグローバル化という多文化、異なる価値観が混在する雑多な世界になりつつある。
勿論、同時並行で価値観の均一化も行われているが、そのストレスたるやかなりのモノだろう。
文明の対決とも言われている西洋社会とイスラム社会の対決は、グローバルがもたらした悲劇だと私は感じている。
そのような世界で生き残るとき、自身の価値観と違うモノに対し、寛容であるか、非寛容であるかでは、その将来において、大きく結果が違うと私は予測している。
さて、上記命題に対し日本社会は、どの道を選ぶのだろう?
私は断然、古代キリストより、古代ローマこそを推奨したい。
結果を見れば、古代ローマ社会の実現は日本に大きな果実をもたらすと考えているからだ。
その高い同質性ゆえに『思いやり、気遣い』を発揮できた日本社会は、その同質性が崩れていく事で苛立ちを覚え始めている。
その対策は、無理やり『思いやり、気遣い』を発揮させる事でなく『クレメンティア』こそが重要ではないかと私は考えている。
如何に『クレメンティア』をもたらすか?
鳩山の友愛はある種、価値観が違うモノ同士に無理やり『思いやり、気遣い』を発揮させる事を目指した政策だった。
たしかに、社会はギスギスしなくなるかもしれないが、何か違うような気がする。
(誰かが我慢する社会になりかねない。もしくは互いに、その『思いやりの無さ』を批判し合う社会か?)
『思いやり、気遣い』の前提条件は相手を理解出来る土壌があって発揮出来るのであって、その土壌が弱い状況では理想でしかないだろう。
現実として世界を見渡した時、中々、人間は分かりあえないのが、現状である。
ならば、その前提の前に、理解しなくてはいけないのでなく、違っている事を是認しあう事を前提とした寛容社会なら、どうだろうか?
かなり、社会は穏やかになると思うし、同時に『思いやり、気遣い』も発揮し易くなるのではないかと思う。
非寛容な社会は嫌いの対象が多い社会であると言える。(不機嫌な社会)
嫌いが前提では、益々、『思いやり、気遣い』は発揮できないだろう。
前記事で『思いやり』の基本は、相手への理解であると主張したが、
そもそも嫌いなモノを人は理解しようとするだろうか?
まずは、他人と自分は違う事を前提に、寛容な心を持って接し合う事から、始める事こそが大事だと私は思っている。
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2010年06月19日
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「親の所得が学力左右」文部科学白書が指摘6月18日13時31分配信 読売新聞 川端文部科学相は18日の閣議に、2009年度版文部科学白書を報告した。家庭の経済力の差が子どもの教育機会の格差拡大につながりつつある現状を挙げ、教育への公的投資の必要性を指摘した。
白書では、09年度の全国学力テストの結果などを分析し、就学援助を受ける生徒の割合が高い学校は正答率が低い傾向があること、親の年収が400万円以下の子どもの大学進学率は31%なのに対し、同1000万円超だと62%に達することなどを指摘。子どもの学力の伸長が親の所得に左右される可能性があることなどをとりあげた。 そのうえで、幼稚園や大学などへの公的財政支出が少ないことを挙げ、「経済的格差が教育格差に影響し、それが格差の固定化や世代間の連鎖につながりかねない。教育に社会全体として資源を振り向けることが喫緊の課題だ」とした。 最終更新:6月18日13時31分
確かに、親の所得と、子どもの学力は相関すると思うが、日本の最高学府たる東大に入学する生徒の親御さんの所得は400万以下が25%を占めており、上記、文部科学白書に対して、私は強い違和感を禁じ得ない。
思うに、今の学力格差とは、モチベーション格差と言っても良く、勉強を努力を肯定する子どもたちと、諦めた子どもたちの格差ではないかと?個人的に感じている。
高収入の芸能人の御子息に、私は高い学識をもった『お子さん』の話をあまり聞かないし、いくら教育費を掛けても、子どもの『やる気』を引き出すのは、一番、近い大人、その子どもの親次第と感じる。
本を読まない親の子は、本を読まないだろうし、『やる気』、『モチベーション』を感じない親の子も、同じ軸で捉えてしまう。
親の資力は、子どもの『やる気』が等価である時に、初めて、その学力の伸長に差が出るのであって、その総てが資力であると錯覚させるよう論評は間違ったメッセージを国民に与える可能性があると感じている。
私は、私の親は資力がないから、私の子どもは、私は学力はない。
悪いのは世の中だ。
子ども手当を増額しても、子ども達の学力は伸びないだろう。
政府は子ども達が努力を放棄しはじめている事にこそ注目して欲しい。
日本の子どもの自宅学習時間は世界で最低である。 しかも、その中身は歪であり自宅学習時間に差(中間層がいない)があり、テレビ視聴時間にも差があるような状況だ。
要は努力する子は益々、努力し、やらない子はやらない状況。
それで格差云々を議論されてもどうにもならんだろう。
勉強だけが人生でないとは言え、一生懸命、何かに努力した経験がない子どもは、何か冷めている印象がある。
何か達観している気がするのだ。
努力した先の達観でなく、努力しないで達した諦観の境地。
そこに至ったプロセスの違いは、その後の人生にどんな光彩の差異を与えるのだろう・・・
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