過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

日本とアメリカの対決は、日本の王道と、アメリカの覇道の対決であるべきだった。
 
日本陸軍の天才児、石原莞爾は、その著書、世界最終戦争論で日本の対米戦における戦略を述べている。
 
それは東亜の大同団結である。
(対西洋同盟)
 
それに対し、日本の取った行動は真逆だった。
 
朝鮮を併合し、中国に反省を促すとして、その首都を攻略し、さらに奥地へと兵を進める。
それで大東亜共栄圏を唱えるのだから、その矛盾は目を覆うばかりだ。
 
確かに朝鮮併合は合法だが、それは民族自決の精神に著しく反していなかったか?
中国は確かに残虐な行動(通州事件、文字通り日本人を虐殺した。日本人が中国人にしたとされる野蛮な行為、総てを実行)をし、日本の怒りを買ったが、それが中国の首都南京を陥落させ、さらに中国奥地に進む理由になったのだろうか?
 
 
上記、行動を説明せず日本の大東亜戦争を聖戦と呼ぶのは無理があると感じる。
 
 
日本は日露戦争に勝つまで、日本人の多くは大アジア主義だった。
 
だから、孫文を援助し、多くのアジア人留学生を受け入れ教育したのだ。(蒋介石もその一人)
福沢諭吉を始め、多くの日本人がアジアの真の独立を考え、日本と伴に、西洋列強の帝国主義に対決しようと、朝鮮における明治維新、中国における明治維新を夢見、それら各国が文明開化する事で実力を蓄え、日本と伴に手をとりあって西洋の覇道(帝国主義)との対決を理想としていたハズだが。。。
 
いつごろから、平等の関係が、日本を中心とした小アジア主義になり、ついには日本も覇道を志すようになってしまった。
 
以下、斉の桓公の逸話だが、
燕の国に山戎という異民族が攻め込んだ。
燕は斉に援軍を求めたので、桓公は出兵し山戎を撃退することに成功した。
燕の荘公は感謝して桓公が斉に凱旋するときうっかり国境を超えて斉の地まで見送ってしまったのである。
当時、自分の領地を越えて見送るのは天子の場合に限るとされており、諸侯同士では礼に反する行為であった。桓公は
「お互いに礼法に背きましたな。ではこうしましょう」
といって、自分の立っているところと、荘公の立っているところの間に溝を引いて
「ここを新しい国境としましょう。そうすればお互いに礼法守ったことになりますな」
と言った。これは斉側の領土の割譲を意味する。
このやりとりで中原の諸侯のほとんどが斉の傘下にはいったといわれている。
 
これこそが東洋の王道だろう。
西洋の利害を中心とした覇道とは異なる思想。
この対決こそが、日本の勝利する手立てだったと信じている。
 
 
斉の桓公の行ないと比べ、日本の行ないは果たして王道と言えたのであろうか?
(朝鮮併合、対中21カ条、対中戦争など)
 
日本陸軍の天才児、石原莞爾は廬溝橋における日支両軍衝突に際し、以下のように戦線の拡大を反対している。
 
「日本は、今後支那と相携えてソ連に備えるという正しい認識の下に、昨年十一月の北京会談で国民政府の意向を知った。
直接話し合えば即時和平解決ができる。
 
もし戦争状態に入れば、長期戦となり、短期間に蒋政権が崩壊するなどという判断は誤りである
 
満洲事変後、蒋政府は抗日スローガンの下に鋭意新政権運動に力を用い、その兵備はドイツのゼークト参謀総長以下五十名の将校を軍事顧問として招き、ドイツ式戦力の向上に努力している。
支那は土地広大、かつ交通状態は近代装備をもってする行動には適せず、我が軍の行動半径は著しく制限され、また各地方が自給自足可能であり、持久戦に有利である。特に警戒を要するのは、ソ連の極東兵備の充実である。支那人の抗日戦意は日ソ兵備の主客転倒が最大原因である。
それ故に今日こそ日満産業五ヶ年計画を遂行し、国防力の充実を図り、ソ満国境にソ連を圧倒するだけの兵力を集中し得るようになれば、漢民族は必ず日本を信頼してくる。
それまでは隠忍自重して支那とは即時和平し、来るべき欧米特にソ連との戦争に備えるべきである。
 
支那がもしも徹底抗戦を続ければ、戦線は支那全土に拡大して、全面戦争になること必至である。
 
っと主張したが、
北京を追われた第二十九軍長の宋哲元から蜂起指令を受けた冀東自治政府保安隊により通州に居留する邦人三百八十五人のうち幼児を含む二百二十三名を惨殺した事(通州事件)により、石原の企図は頓挫してしまった。
 
筆舌に尽くし難い余りに猟奇的な支那人の虐殺行為が我が国の世論を激昂させたことで、石原は早期和平方針を達成できないと悟り、
「今のままでは日本は四つの島だけになるだろう」という予言を残し、関東軍参謀副長に左遷されたのである。
 
もっとも石原自体は日中の早期の講和と連携を追い求め、その後も行動し昭和13年6月、戦争指導方針を作成し上梓している。
曰く、
 
「北支の軍権我に帰し進んで漢口を攻略し得たりとするも、蒋政権の覆滅は尚望み難く又、仮りに蒋政権倒壊するも全土抗日気運は断じて解消することなかるべく、辺彊尺寸の国土存する限り国民党を中心に長期に亘り我に抵抗すべきは疑を容れざる処たるべし。
蓋し斯る場合に於ける漢民族の抵抗の意外に強靱なるは歴史の教うる処なり。
 従って武力の絶対を盲信し即戦即決主義に依て之を屈せしめんとするは四億の民と近代的装備を持つ支那を土民国エチオピアと同視せんとするの誤謬を犯すものたり。
対支戦に於ては戦局は必ずや長期化し単に武力のみならず政治経済の綜合的持久戦となるべし。
 而して彼を徹底的に屈服せしめんとせば数十ヶ師団の兵力を数十ヶ年に亘って異境に須うるの難事を遂行し得るの自信なかる可らず。
若しこの覚悟なくんば仮令一時の戦勝を得たりとするも彼は十年ならずして国力を恢復し再び事を構うるに至るべきは大戦後の独乙の先例にみるも明かなるべし。
 今日政論家徒に積極的作戦を強調し武力の優越を過信するものは支那事変が持久戦の覚悟を要請するの根本義を解せざるものと云うべく為政者兵を絶域に須いて局地の捷報に国民を悦しめんとするものはその政治的弱体の曝露を覆わんとして無名の師に国力を蕩尽せんとするものと云わざる可らず。
斯の如きは独り国家百年の計を過るのみならず東洋の二大民族を駆って永遠の憎悪抗争に陥らしめ平和の招来を絶望ならしむるのみ。
真に日支の提携を齎らさんとせば卅年来の対支国策に於てビスマルク的転回を敢行し恩威並び行って相侶に協力すべきなり。
 ソ連の向背は未だ遽に逆賭し難しと雖もその参戦信ずべしとせば須らく速に支那と和を講じて之に当たらざる可らず。
幸に両三年彼起たずと推せば今日過剰の兵器弾薬を生産して之に備えるを姑く己め国防産業生産力自体の拡充に全力を傾注すべし。
一方に対支戦局を拡大しつつ他方又対支戦備に貧弱なる生産力の過半を奪われるる如きは前後の狼虎に餌を与えて庫中空しきに到るもの、斯の如くんば国防産業の確立も十全の軍力整備も到底之を期待し得ざるものと云わざる可らざるなり
 
と主張した。石原の戦争指導方針は卓見であったが、それに対し、
当時の代表的思想家、尾崎秀実は、
(朝日新聞記者、ソ連のスパイ、近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。)
 
石原の主張に逐一反駁を加えこれを完全否定するが如き対支強硬論を唱え、大衆を煽動した。
そして尾崎を最高政治幕僚としていた近衛内閣には、石原の正論は届かず、十二月、石原莞爾は失意のまま舞鶴要塞司令官という閑職に左遷されてしまった。
 
国民が論理もしくは合理より周囲の「空気」を重んじる日本においては、一般大衆を煽動し世論を醸成する支那問題の権威の「暴支膺懲論」が、陸軍首脳に提出された関東軍参謀副長の「日支提携論」を打ち破り、国策の決定に圧倒的な影響力を及ぼしたのである。
 
尾崎が東亜新秩序の意義、東亜協同体論、聖戦を強調する論文を次々と発表し、支那事変の拡大長期化を正当化したのは歴史が教える通りである。
 
さらに、石原は昭和十三年末の東亜新秩序声明においても、
欧米の圧迫を排し、国体の本義に基づく公正なる「東亜大同」の実現すなわち、
 
一、国防の共同
二、経済の一体化
三、政治の独立
 
を結成の基礎条件、「王道」を結成の指導原理とし、日本、満洲国、支那の三国を中核、その他の東亜地域を経済的相互依存関係の靱帯により日満支と結合した外郭として構成される「東亜連盟」の結成が国家の大方針として行なうべしと提言したが。。。
 
日本は。。。
 
昭和15年、石原は東条英機を批判して以下のように述べている。
 
「東條軍閥は石油がほしいので、南方諸島を取ろうとしている。
石油のないことは始めからわかりきったことだ。
何がない、かにがない。
だから他国の領土に手をつける、これは泥棒ではないか。
石油がなくて戦争ができないなら、支那事変は即時やめるがよろしい。
ヤツらのやることは皆これだ。
 北支に手を出したヤツらは北支は豊庫だと考えていた。
北支などは月経の干からびたお婆さんと同様だ。
何があるものか。それ南支、それどこだ、とやたらに手をつける。
 
そして国民に向っては、今次事変は『聖戦』だといっている。
これを他民族は何と思うか。
聖戦とは泥棒の戦いとしか思わない。
 
またしきりに『皇道宣布』と声を大にして叫んでいる。これでは皇道とは侵略主義と誤解されるではないか。
 支那事変が始まって以来、日本のやっていることは大家の亡びる時とそっくりである。
大家の亡びる時は、あれに手を出して失敗し、これにも手をつけて損をし、といったように自信も信念もなく、やたらに手ばかり広げ、ついに倒産してしまう。
 ヤツらは今南方に手を出そうとしているが、日本海軍には日本本土防衛計画はあるが、南方地域防衛の作戦計画はない、南だ、北だ、支那海だといって諸方面の防衛に当れば、本土はガラ空きだ。オレの言う事を聞かぬと、今に船がなくなるぞ。そして日本の都市は丸焼けになるぞ。必ず負けるぞ。」
 
 
石原莞爾は、東亜諸民族の全能力を綜合運用して対米最終戦争に必勝の態勢を整える「昭和維新」の断行を力説しながらも、一九四一年時点での日米開戦には猛反対していた。
なぜなら日本は開戦劈頭に西太平洋の制海権を掌握すれば、アメリカ本土からの補給を喪失したフィリピンを容易に占領し得るが、広大なアメリカ本土の東海岸にあるアメリカの政治経済の心臓部を攻撃破壊することはできず、必然的に長期持久戦に陥り国力の消尽を余儀なくされる。
そしてアメリカ本土の巨大な人的物的資源および経済力の支援を受けるアメリカ軍が日本の国力の消尽に伴い弱体化する日本軍に反撃し日本本土周辺の島嶼群を占領すれば、日本の本土は狭い為に、日本の政治経済の心臓部はアメリカ軍の作戦半径から逃れることはできず、空襲を受けて徹底的に破壊され、日本は継戦能力を喪失しアメリカに屈服せざるを得ない。
空軍の大発達とくに決戦兵器が実現し、日本軍が容易にワシントンやニューヨークを空襲し得る戦力を具備しない限り、日米戦において、アメリカは自国の滅亡を危惧することなく日本に決戦戦争を強制し得るが、逆に日本は重要資源と戦略縦深を欠く経済小国でありながら国家の存亡を賭け全力を挙げて持久戦争を戦わねばならず、我が国は自国の地理条件によって極めて困難な戦争指導の遂行を宿命づけられていたからである。
 
石原の「日本の都市は丸焼けになるぞ、必ず負けるぞ」という予言と「現在はたとえ踏まれても蹴られても戦争をしてはならぬ」という固い信念は、世界最終戦論から導き出された合理的な結論であり、石原莞爾は理想主義者であると同時に日米間に厳然として存在する国防地理の非対称性を見据える現実主義者だったのである。
 
 
これだけの傑物が日本の戦争指導層から弾かれていた悲劇。
この石原の理想(情熱)と現実(冷静)が当時の日本人にはなかったのだろう。
 
そしてソ連の回し者の尾崎に日本は扇動され、日本の愚かな行為は聖戦となり、日中は泥沼の戦争を続ける事になった。
日中戦争を正しい事と思っている方が、現在においても多くいる事から見ても、尾崎の 弁舌の巧みさは今なお色褪せないようだ。

開く トラックバック(1)

全1ページ

[1]


.
K9
K9
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(11)
  • ロベルト・ジータ
  • フレディ
  • Yada
  • あい
  • seitaisalonoasis
  • fusion
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事