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中国を「信頼していない」が84%にも上り、左記数字は過去最高でもあるそうである。
これまでの記録は『毒餃子』が引き起こされた2008年の77%だったので、それよりも現在の対中感情は確かに悪い。
悪い事には悪いが・・・、『毒餃子』と国家の大事である『尖閣』でわずか7%程度の差である。
これを大きいと見るか、小さいと見るか。。。
菅内閣に優先的に取り組んでほしい課題では、「景気や雇用」34%、「年金など社会保障」27%、と過半を占め、国家の大事である「外交や安全保障」は14%ホドだったそうだ。
上記結果を鑑みると、政府に何をして貰うかを基準に政権評価を決めているようにも見え、国民の政府に対する過度な期待、もしくは依存を感じてしまう。
確かに経済対策における国の役割は大きいが、個人でなんとかなるものである。
実際、どうにかしている人も多い。
(上手く行かない人もいるのは承知しているが・・・)
一方、国の安全保障は、個人で対応できないモノと感じている。
何か優先順位を我々は間違っていないか・・・
そんな気がする。
経済環境が立ち行かなくなった時、その怒りは何処に向かうのだろう。
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2010年10月04日
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菅内閣支持下落53%、船長釈放「不適切」7割 読売新聞社が1〜3日に実施した全国世論調査(電話方式)で、菅内閣の支持率は53%となり、内閣改造直後の前回調査(9月17〜18日実施)の66%から下落した。
不支持率は37%(前回25%)だった。沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件で、検察が中国人船長を処分保留のまま釈放したことを「適切ではなかった」と思う人は72%に達し、その理由としては「日本は圧力をかけると譲歩するという印象を与えるから」が41%で最も多かった。中国側の強硬姿勢に対する日本側の対応への不満が、内閣支持率を引き下げたようだ。
転載終わり
上記結果をどう、読み解くか?
あれ程酷い対応、幼稚な言い訳をし、船長釈放の決断を司法の責に負わせ(国家の命運を決定する重責を担う覚悟もない、あるのは保身のみ)、恥も外聞もなく船長の釈放を行ったのにも関わらず、何ら外交的成果を得られなかった菅政権。
過去記事
尖閣と中国、そして日本、私の怒りの本質
フジタの社員は相変わらず抑留され続け、
(拘束者の宿泊施設が二転三転、、、ホテル、ホテル、軍の招待所。。。と移動しており、今朝のニュースにおいて、その頻繁な拘束場所の移動は中国政府の場当たり的な逮捕である事を想像させる、一つの証左ではないかと識者が解説していました。
当時、中国も、相当、弱っていたようです。
関連記事
尖閣諸島における中国の弱気
日本の対応を探るように尖閣近海の接続領域(公海上)に漁船監視船という名の軍艦を派遣され、しかも、損害賠償と謝罪を要求されているのが、今の日本の外交状況である。
私など、中国の対応に憤るのと同様、民主党のお粗末な対応に苛立ちを覚えたのだが、半数が菅政権を支持している所を見ると、日本の民意はそれ程でもなかったようだ。
一部、プログは偏向情報との主張を展開しているが、さて。。。
まず、最初に日本人は、今回の尖閣の一件をもって、中国に不信をもったのは、間違いない事実のようである。
対中感情に関しては、中国を「信頼していない」が84%にも上り、同種の世論調査では過去最高を記録している。
民主党政権の外交・安全保障政策に不安を感じる人は84%。
後の日本政府の対応では、尖閣諸島が日本の領土であることを、国際社会により明確に主張すべきだと思う人が90%に、それぞれ達しているが、
これらの不安が、管政権への不支持には結びついていないようである。
同世論調査に応えた人々の重視する項目は
「景気や雇用」34%
「年金など社会保障」27%
「外交や安全保障」14%
であり、どうも「景気や雇用」、「年金など社会保障」等の身近な内容を重視する一方、それとの相対比較で尖閣を代表とする安全保障は、それ程、重視していないようでもある。
同じ質問をした8月6〜8日の世論調査において、「外交や安全保障」を重視する人々は4%であり、大幅に増えたのは事実だが、管政権の支持率下落=外交に関心をもった層の増加(10%)とも言え、国民の関心は身近な事に集中しているようだ。
もっとも、私などの政治に意味もなく関心のある層(歴史好き、その延長線で現在の政治状況を俯瞰しています)に言わせると、
古来、外交下手の国家が繁栄した事例を、私はまったく知らない。
戦後、日本は冷戦構造と言う特殊な政治状況の基、外交(安保)をアメリカに委任する事で大いに繁栄する事が出来た。
アメリカに外交(安保)を委任したのにも関わらず、日本が繁栄を謳歌出来たのは、日本を繁栄させる事が当時のアメリカの国益に合致したからである。
が、その政治状況も89年のベルリンの壁崩壊を切っ掛けに激変し、それ以降、日本の国際的地位は、落日の勢いで低下しているのは御承知の通りである。
その切っ掛けは、アメリカとの外交交渉が理由である事を皆さんは忘れてしまったようだ。
歴史的経験を基に言わせて貰えば、外交成果は国民生活に直結するモノである。
そして、今回、露呈した民主党の外交手腕をもって、その経営手腕も想像出来るモノなのだが、残念ながら、その種の想像性は働かないようである。
おそらく興味がないだけなんだろうが。。。
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新聞報道のありかた、一つの希望−その1
tp://blogs.yahoo.co.jp/k99999five9/23529641.html
新聞報道のありかた、一つの希望、その問題点−その2
参院選と同様、日本の景気悪化を理由に、下り最速で菅政権の政権支持率は低下するのだろう。
既に日本の景気は踊り場から、下降局面に向けて下り始めているようだ。
現在、日経平均株価の上値が非常に重いのだが、円高ドル安を止める為に必要な、外交手腕が日本政権指導層にない以上、その未来は容易に想像がつく。
目先の利く指導者なら、円高を如何に利用するか、メッセージを発し、危機回避(?)をするのだが、
民意を読むのが得意な菅総理は、残念な事に民意を作り出すのは不得意のようである。
その事は参院選における消費税論議で立証済みの事でもあるのだが。。。
![]() さて、このお手は誰の手でしょう?
アメリカの根拠のない人権外交により、日本が長年にわたり開発に携わったイランの石油利権も放棄しましたし、日本の安全保障は千載万歳、万々歳です。
そして、私達の生活も万々歳です。
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尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件をめぐる9月30日の衆院予算委員会集中審議で、自民党トップバッターの小野寺五典元外務副大臣は、この事件への政府の対応を「戦後最大の外交敗北だ」と批判した(各紙、10月1日)。
この発言は恐るべき無知の露呈で、外務副大臣(安倍改造内閣及び福田康夫内閣で)の経験者もこの程度の歴史認識しか持っていないのかと一驚した。 戦後日本外交の最大の敗北は、吉田茂首相(現在の自民党の前身の一つ、自由党の総裁)による、サンフランシスコ条約(「日本国との平和条約」、1951年9月8日調印、52年4月28日発効)締結に際しての「千島列島の放棄」(同条約第2条c)であろう。この権利放棄が、それ以後におけるわが国の「北方領土問題」についての立場を決定的に苦しいものにした。 それに次ぐ日本の外交的敗北は、鳩山一郎首相(元日本民主党総裁、55年の保守合同で自民党初代総裁)による「日ソ共同宣言」(1956年10月19日、モスクワで調印、同12月12日発効)の合意に際しての 、「歯舞群島及び色丹島の引き渡し」の条項(同条約第9項)である。これにより、対日二島返還で領土問題を解決しようとするソ連(現ロシア)の方針に有力根拠を与えることになってしまった。 ここで、第2次大戦終結に伴う、日本の領土問題に関する国際取り決めの推移の要点を振り返っておこう。
こうした取り決めの直接の出発点は、連合国が日本政府に「戦争の終結」の決定と「全日本国軍隊の無条件降伏」を迫った「ポツダム宣言」(1945年7月26日、原署名国は米国、中華民国、英国。後にソ連が参加。日本は同8月14日にこの受諾を通告)である。 この宣言は第8条で、戦後における日本の領土について、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及ビ四国並ビニ吾等ノ決定スル諸小島ニ極限セラルベシ」と指定した。問題は、この「諸小島」の範囲をどう決定するかということで、それは連合国と日本の平和条約の課題として残された。 この平和条約は、連合軍(実質的には米軍)による日本占領の時期に、サンフランシスコにおいて、全連合国との「全面講和」ではなく、「片面講和」(当時は単独講和といわれた)として結ばれた。 この平和条約が「全面講和」とならなかったのは、1949年に北京で成立した新中国政権(中華人民共和国)を米国や日本が承認していなかったために(それまでの国民党政権は台湾に逃避)、サンフランシスコ講和会議に出席すべき中国政府を北京、台湾両政府のいずれにするかについての連合国間合意が成立しなかった(英国はすでに北京政権を承認)ことによる。その結果、この講和会議は対日戦争の一主役であった中国の代表が参加しない不正常なものとなった。
またソ連、ポーランド、チェコスロバキアの東側3ヵ国は、サンフランシスコ会議には参加したが、中華人民共和国の会議への不参加を理由に会議の無効を主張し、署名を拒否した(当「診断録」10年8月15日号参照)。 このような「片面講和」のひずみを是正するため、その後「日ソ共同宣言」(上述)や「日中共同声明」(日本側代表は田中角栄首相。1972年9月29日)がソ・中両国との間で合意された。 さて、サンフランシスコ条約においては、ポツダム宣言第8条に述べられた戦後日本の領土について、第2章「領域」第2条で次のように決定した。
(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 (b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 (c)日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 (d)〜(e)は省略 (f)日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 このサンフランシスコ条約(以下ではサ条約と略す場合がある)の領土条項については、念のために、広く次の諸点についてコメントしておく。
(a)について。日本は独立する朝鮮に対し、済州島、巨文島及び鬱陵島を放棄することを受け入れたが、竹島については権利を放棄していない。 (b)日本は台湾及び澎湖諸島(台湾西方海上)を放棄したが、尖閣諸島の放棄はしていない。なお、放棄した台湾等の帰属先については。この条約は定めていない。 (c)日本は千島列島を放棄した。地理的には千島列島とは、通常は国後、択捉から占守島(しゅむしゅとう)に至る列島を指す。したがって、(歯舞、色丹島に加え)国後、択捉島を含む諸島を「北方領土」と称して(南千島とは言わないで)ロシアに返還を求める日本の立場は、サ条約を無視していることになり、国際的にははなはだ弱い(この点は後でも述べる)。なお、サ条約は、日本が放棄する千島列島と南樺太の帰属先については述べていない。 (f)について。新南群島とは現在の南沙諸島のこと。そして、サ条約は日本が放棄する南沙、西沙両群島の帰属先についても決定していない。ここに、この両群島の領有権をめぐる今日のASEAN諸国と中国の対立の一原因がある。 このように、日本は1952年の対日平和条約において千島列島の放棄という重大な過失を犯した。第2次大戦の終結に際しての国際交渉と国際関係に関する優れた研究である「ヤルタ−戦後史の起点」(藤村信、岩波書店、1985年)は、このことについて次のように論じている。
「サンフランシスコ条約で千島全島の放棄を承認した日本は、それ以後、『四つの島々は日本固有の領土であったから千島諸島には含まれない』という苦しい論理を発見し、《北方領土》という、世界の世論にアピールするには説得力の弱い、概念の不明確な言葉をつくりだして、四つの島々の返還を求める運動を展開しています。しかし、これも矛盾した用語であって、『固有の領土』というからには千島の全島を含めなければならないでしょう」。 この藤村の説明には若干の補足が必要だろう。 藤村が「『固有の領土』というからには千島の全島を含めなければならない」というのは、1875年(明治8年)の日露両国の「樺太・千島交換条約」により、平和的に(つまり戦争の結果としての獲得物ではなく)、千島全島が日本領土となった事実を指している。
したがって、従来の日本政府(主として自民党政府)は二つの矛盾を犯していることになる。 すなわち、その第一は、サ条約で全千島を放棄しておきながら、あとになって南千島の国後、択捉を「固有の領土」だと主張して千島列島から除外しようとしていることである。 その第二は、「固有の領土」の返還を求めるなら、なぜ全千島の返還を求めないか、という問題である。 サ条約で日本が放棄した千島列島とはどこかという問題については、当時の西村熊雄外務省条約局長が同条約を批准するための衆院での審議(1951年10月)に際し、放棄した千島列島には南千島(国後、択捉島)が含まれると答弁している。
そうした日本の主張が変化するのは、日ソ国交回復のための交渉が鳩山一郎内閣の手で始められた時(1955年)以降である。すなわち、交渉の始まる頃から、保守合同後の自民党内から「四島返還論」(北方領土返還論)が台頭し(55年11月には四島返還が自民党で党議決定された)、鳩山首相の対ソ交渉を制約した。この要求にソ連は反発、それが主因で国交再開交渉は難航した。 その結果、到達した結論が、平和条約の締結を先送りしての、「日ソ共同宣言」(1956年)の合意であったが、この宣言は第9条で次のように述べている。「ソビエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」。ここで、ソ連が「返還」と言わず、「引き渡し」とした点にも注目する必要がある。 その後の日ソ交渉は、曲折を経たが、依然として領土問題が最大の障害になって今日まで妥結に至っていないことは周知の通りである。「四島返還」を主張する日本の立場にとっては、やはり「日ソ共同宣言」における歯舞・色丹返還の条項が弱みとなっていることは否定できない。当時の日ソ交渉では、むしろ領土問題をすべて未解決事項とした方が望ましかったと思う。
しかし、問題の発端は、なんといってもサンフランシスコ平和条約において日本が認めた「千島列島の放棄」である。この時の吉田政権の無思慮、その結果としての国益の毀損あるいは外交的大敗北(主としてソ連に対する)を、今日あらためて検証する必要があろう。 なお日本共産党は、千島列島は「1875年に明治政府と帝政ロシアが結んだ樺太・千島交換条約により、戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」しており、したがって「四島返還」だけを求める日本政府の方針は大きな誤りで、「全千島の返還」を要求すべきだと主張している(しんぶん赤旗電子版、10年1月27日)。そうした要求の実現は不可能に近いと思うが、要求の論理としては最も筋が通っている。 以上のように、戦後の日本はその建て直しの出発点において、吉田内閣の手で外交上の「大敗北」を招き、それによって戦後の日本の国際的立場を弱める大原因をつくってしまった。
始めに紹介した自民党の小野寺五典元外務副大臣は、そういうことも知らずに、尖閣諸島問題で逮捕した中国漁船船長を釈放したこと(それで政府が尖閣諸島についての日本の領土的主張を引き下げたわけでもない)をもって「戦後外交最大の敗北」との非難を大上段で政府に浴びせた(私もTVでその場面を視聴した)。“無知なる者は(心臓が?)強い”、ということか。(この項 終り) |
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