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尖閣衝突映像流出とかけて現代の忠臣蔵ととく。
そのココロは、
どっちに転んでも為政者が批判されるでしょうである。
江戸時代元禄期に起きた忠臣蔵は公の裁定に対し異議を申し立て、押し込み殺人をした事件でもあった。
法の裁定に対し暴で47士は応えたのである。
確かに公の裁定は非常に不公平なモノでもあったが、一番の問題は殿中で刀を抜き、私怨を晴らそうとした浅野匠守にあり、その私怨を47士が晴らす事に何の大義があったのか疑問ではあるが、当時の人々はその忠義に拍手喝さいを送り、時の為政者の判定に対し遠まわしに異議を唱えたのである。
(歌舞伎で忠臣蔵は室町時代初期の政治家。高師直等に敵役を変えて行なわれるのは上記幕政批判と受け取られないように配慮した庶民側の知恵)
浅野匠守の私怨は、遺臣の忠義に昇華され、そして人々はその忠義に感動したのである。
大本はケンカ両成敗をしなかった公に問題があるのだが、それを直に批判する事は自身を危うくする為、人々はその忠義を称賛する事で、その公の裁定の不公平さを糾弾したのである。
忠義は武士社会における重要な要素である為、その忠義を理由とした暴をどう裁くかで当時の幕閣は紛糾するのだが、荻生徂徠の正論で、その処置が最終的に決する事になった。
さて、現代の忠臣蔵になりうる、今回の尖閣衝突映像流出を日本の民意はどう捉えるのだろう。
日本の民意が激高すると言う事(激高するような情報?何か隠匿してるかもしれない)で公開されなかった動画が、その動画を公開する事で問いたい内容は、今回の顛末における中国漁船側の不正義だろう。
(謀略説でなく一個人による私心のなき純粋な行動が動機と読み解く場合、上記のようになる。正直、この可能性が一番高いとは思うが、なぜ?今なのかが不明。
関連記事:尖閣衝突映像流出について感じる疑問(ノイズの存在)
その動機自体に反感を持つ方は少ないと思うが、公の裁定に反旗を翻し、法を犯してその是非を問うやり方は赤穂浪士と同じ論法でもある。
徂徠豆腐という落語の中で、
徂徠が貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文し店先で食べてしまう。
豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。
その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金と新しい店を豆腐屋に贈る。
ところが、義士に切腹をさせた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。
それに対して徂徠は、
「豆腐屋殿は貧しくて豆腐をタダ食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」と法の道理を説いた。
さらに、
「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」
と武士の道徳について語った。
これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋があるのだが。。。
この豆腐屋は勿論、我々であり、徂徠は民主党に立場を変えて私などは考えてしまう。
そして、豆腐屋と違い我々が、徂徠民主党を許し難く感じる理由は、民主党の行動に大義を感じず、ただ、保身のみであると感じてしまう事に原因があるのではないかと、私自身は考えている。
実際、今回の尖閣の不手際で責任をとった主要閣僚は残念ながら誰もいない。
民主党の大刀は敵でなく、我々に向かっている気がし、小刃は間違いなく捨ててしまっている。
戦略的互恵関係なるコトバで自身の政治判断(司法にその責を転嫁しながら)を美化している彼らに、
現在の武士階級にあたる民主党の政治家達に、
私は腹を切る(責任をとる)覚悟など微塵も感じない。
落語では
浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて
「先生はあっしのために自腹をきって下さった」
と豆腐屋の言葉がオチになるのだが、責任をとる気のない政権担当者にこのオチがあるのか疑問でもあり、自らを裁く小刃を捨て去った民主党の腹を切らせられるのは何時の事になるのだろうかと考えてしまう。
現代に荻生徂徠に相当する覚悟をもった政治家が民主党に見当たらない以上、今回の忠臣蔵の幕引きに万人が納得する結末を求めるのは無理な気がする。
浅野匠守の無念は47士によって晴らされ、その恨みは忠義として昇華された。
我々の無念、恨みは何に転嫁されるのだろう。
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2010年11月07日
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北方領土の遠因を作った秀才政治家。
誰であろう、それは松平定信の事である。
寛政の改革を行い、その改革に見事に失敗し、日本の幕末に向けた政治混乱の遠因を作った秀才政治家。
改革とは名ばっかりの旧来に戻す改革を行い、その無理は当然のように、現実に負けた。
失意の中で隠棲する事となった彼の眼には世界はなく、ただ、神君家康公の、吉宗公の時代に戻りたかっただけの箱庭のような現実感の感じない理想。
環境が変化したのに関わらず昔に戻るという理想は、当然のように破綻した。
彼の政治は
『白川の清き流れに魚棲まず、濁れる田沼いまは恋いしき』と揶揄されたように、現実を無視した政治ではあったようである。
日本の教科書では定信の行なった一連の改革を江戸時代の三大改革と並び称し記述しているが、守旧派の改革を改革と言ってよいのか私には理解できないし、これほど歴史的事実を改ざんした記述、表現はないものと思っている。
文字文化を庶民から奪おうとし、文盲化政策を行うとした政治家でもあり、その動機は朝鮮の両班と同じ理由であるほど頑迷な政治家。
近年、田沼意次の評価が高まると同時に、その歴史的評価が下がって来ている守旧政治家、松平定信。
彼の理想は神君家康公の作った祖法を守る事だけだったのであろう。
そして、その祖法とは彼の行なった対外政策にも現れている。
彼が現代に生きる我々に一番影響を与えているのは、この対外政策である。
定信は祖法を大事にするあまり、海外政策自体を放棄させたのである。(失笑)
江戸初期に戻れ。
蝦夷地を含む北方探検や開拓を総て取りやめさせ、あまつさえ関係者を処断(刑死)させるほど、その政策は苛烈を極め、その結果、日本の蝦夷地開拓は大いに遅れをとり、本格的な開拓は明治まで時を待たねばならぬほどの遅れを喫する事になってしまった。
天保の飢饉の衝撃も蝦夷地開拓(開拓の進んだ北海道は、今や日本一の米どころです。当時の試算でも200〜300万石級の潜在能力があるとみられていました。)が進んでいれば、また違った展開を見せただろうが、愚かにも松平定信は蝦夷地開拓における動きの総てを停止させてしまった。
そして何よりも日本の北方探検を取り止めさせ、日露の領土問題の遠因にさせてしまったのが、この人、松平定信でもある。
日本が国後を日本固有の領土と主張出来るのも、最上徳内が国後、択捉に碑文を建てたからである。
そして、その最上徳内を松平定信は弾圧し、刑死寸前まで持って行くのだから、その怨念、情念の凄まじさに嫌悪感を感じてしまう。
最上徳内の場合、武士階級でなかった為、身分制度の再構築を図る定信にとって二重に気に障る存在だったのだろう。
他にも領土問題(外交関連)で定信の犯した失敗は多く。
ロシアの脅威を警鐘した林子平の『海国兵談』(海防の必要性を説いた書籍)、『三国通覧図説』等を発禁し、子平を禁固刑に処すなど、海外情勢については無知無能の極みでもあった。
明治維新時における朝鮮王朝のような頑迷さを定信の主張には感じてしまう。
後に林子平の書籍は海外に渡り、黒船来航時における領土交渉、小笠原列島帰属問題におけるの有力な証拠ともなった。
もし、林子平がこれら書物を著していなければ、小笠原列島はアメリカのモノとして帰属していたかも知れないホド、日本にとって子平は大恩人でもある。
そんな日本の恩人、子平や徳内を弾圧した政治家が定信である。
江戸幕府には残念ながら領土保全に関する意識が希薄であり、世界の常識を知らないが故に、危うく小笠原や北方領土全般を奪われる所だったのだが、その遠因に世界の常識(世界の中の日本の意識が皆無)にも背を向けさせ、ただ、祖法のみを守る事に腐心させた定信の影響を感じてしまう。
その無知は後にアメリカにつけ込まれ、金と銀の交換比率を間違えるという致命的な失策に及び、日本の財貨を大いに失わせた事にもなった。(この経済的混乱により日本は困窮する。幕末期に日本のGDPの20%が失われた原因の一つ)
定信自体は日本に善き事と信じ、身命を賭して改革(過去に戻す)にあたったようだが、その結果は見るも無残なモノであった。
身命を賭して政治にあたった過去の日本の政治指導者を批判するなと日本の過去の戦争に関してコメントを頂いた事があるが、身命を賭すだけで良しとするのも、それはそれで問題だろう。
最も、今の菅政権と比較すると定信の責任感が好ましく感じもするが、その行なった結果は、どっちも変わらない破滅・破綻。
そして、その影響、身命を賭して行なわれた定信や戦前の政治指導者の政治決断の影響は現在を生きる我々にも与え続けている。
歴史は断続的でなく継続的だ。
歴史を学び現在に、そして未来に繋げて欲しい。
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