世界人権宣言
では以下のように説明されている。
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。
では、これは真実であり、事実何であろうか?
ハーヴァード大学教授。マイケル・サンデル教授の正義とは?の問いかけにに近く、中二病的な問いかけだが、この問いかけに対し応えられる人はかなり少ないと感じる。
そして、その答えに応えよとするのは、ある種のタブー感、忌避感が伴なうと思うが、どうであろうか?
(稀に答えきる人がいるが、、、)
そんな忌避感の強いテーマを記事にするのは、サンデル教授に関して記事化する為である。
なぜ?いま、彼はこの投げかけを行なうのか、そして、それが世に称賛されるのか?
そして、彼の議論の幼稚さと、その反面の難しさを説明するのは存外、骨が折れる作業でもある。
幼稚だが難しいのである。
平等、正義・・・、人の在り様の根源にふれるテーマは非常に難しい。
私が本プログ、その他で衝突するのは、この平等、正義の価値観に異論を唱えるからである。
絶対の平等、正義はない(と私は思っている)のだが、そこに絶対を、理想を持ち、自論を展開している記事を読むと、その論拠について私は問いかけてしまうのだ。
絶対を自認している人に対し、その絶対の論拠を問うのだから、ある程度の衝突は仕方ない。
が、何気に絶対を信じる人は、その絶対について何となく思っているだけが多く、私の問いかけに対応できない場合が実に多いのだ。
(この何となく、文化というか空気、当然と言う考え方。これはこれで正しいのかもし
れないが・・・、その結果、引き出される答えが。。。)
絶対の平等が実は非常に歪で人為的な世界になる事を直感で理解出来る人間は少ない。
(護憲派と呼ばれる方々の多くは理解出来難く、保守派と自認する方々の多くは理解出来る)
同様に絶対の正義の行きつく先も同じなのだが、それを理解出来る人も少ない。
(護憲派と呼ばれる方々の多くは理解出来き、保守派と自認する方々の多くは理解出来難い)
もしくは、考えなくても分かり切った答えなのでわざわざ言明しないだけかもしれない。(日本人の多くはここに分類、もしくは考えない)
答えのない世界に答えを求める所に私は宗教的な価値観を感じてしまう。
基本、そんなモンと思うのだが、そんなモンに絶対の価値観を据え付け論理展開をするので、矛盾を感じてしまい、その論拠を素直に問いかけてしまうのだ。
(現実社会では出来ない事を行なっている。私も小市民なので、いらぬ衝突を現実世界で行なう気はない)
私は過去、平等病、共産主義者、強欲資本主義者、左翼、右翼、売国、軍国主義者、自虐史観、民主党擁護者、自民党擁護者、小沢の犬、朝鮮人、中国人、非寛容、読解力不足etc・・・の御言葉を頂いているが、彼らが怒るのは彼らの価値観の論拠に問いかけた行為、それ自体が彼らにとって我慢出来なかったからと分析している。
何々主義者と言うコトバが嫌いなのは上記背景である。
一体、私は何者なんだと思わなくもないが、見る人によって、その人の価値観によって多様な見え方がある。
もしくは、私とは何々主義と一言で分類され程、単純化されていないのだと自分で理解している。
そも、人とはそんなんに単純に語れるモノでなく、ある一面では共産主義的であり、ある面では資本主義者なんだろう。
その一面を捉え、事象を単純化するのが今の流行りのようだが、私はそれとは一線画している(つもり)。
だからこそ、サイデル教授の試み(普遍の正義を基準を問いかける事)が如何に難しく危ういモノか理解している。
が、根本は割と簡単で幼稚な問いかけでもある。
前述した通り、そんなモンなんである。
なぜ?そんな幼稚な問いかけが難しくもなるのか?
それが本テーマで投げかけたい内容でもある。
そして、私が仮想空間で衝突をする背景でもあると感じる。
平等、正義に論拠を求めた時、その論拠を上手く応えられる人間は少ない。
平等、正義を説明すなら相対的な平等、相対的な正義だけだろう。
その相対性の重要さ、意味の認識のずれが強い人ほど、私と衝突をする。
絶対の平等、絶対の正義はないが、相対的な価値観、公平は存在しうる思っている。
次回、平等と公平の違いについて掘り下げ、正義につなげたいと思っている。