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先ほど、御友達の記事に触発されてと書きましたが、実は触発されたのはこの記事です。
鳥、鳥、鳥。
この記事を読んだとき、大相撲の抱える悩みを思い浮かべ、記事を書いていましたが、つい横道にそれてしまい先の記事 http://blogs.yahoo.co.jp/k99999five9/27240020.htmlに結実してます。
如何にも私らしい主観(感想を述べただけ)のこもった記事でしたが、この記事は私らしくシニカルに書きたいと思います。
ところで、一連の相撲関連の不祥事の根本とは何だかと問いかけた時、ありていに言えば一言。
競技人口の少なさに起因していると思っています。
皆さん見るのは好きですが、相撲はしないと思います。
学生時代に戯れ程度に遊ぶかもしれませんが、大人になって相撲をとる方は非常に少ないと存じます。
そんな部外者達が、あーせーい、こーせーい、感想を述べるだけでなく、それを強制する。
そこにある種のエゴを感じてしまいます。
以前、書いた記事、
社会に関心持つと良いよね。農大教授の独白(?)
その記事において、農大の教授は以下のように呻いています。
誰かが悪い
と悪をなすりつけ、
知る努力をもせず、求めるばかりの消費者という名の虚像が放つエゴが真の悪だ。
無農薬野菜は好きだけど、無農薬野菜を作らないと同義でしょうか?
はたまた、評論家諸氏がモノ作りの大事さを訴えるが、自らがモノを作らないのとも同じ話とも感じます。
自分がやるのは嫌だけど、他人にお願いしたい。
そう私もその一員です。
それを知るからこそ、八百長問題に関して相撲記事を書きませんでした。
正直、私は自ら角界に入ろうと思いません。
自分にその能力がないのも一因かもしれませんが、他に魅力的な世界があると感じているからです。
過去、大相撲についてイロイロ書きはしましたが、今回の八百長に関しては私のエゴ。
一生懸命が見たいと言うエゴが強く、その想いを書く事が憚れたからです。
大相撲に一生懸命が失われつつある理由。
そこに現在の日本を重ねてしまいます。
自己の可能性を信じない(努力を放棄する)子どもたち
もっと努力を評価すべきでは?
大学生の学力低下に想うー内田樹先生記事抜粋
http://blogs.yahoo.co.jp/k99999five9/12720298.html プロ友の水がめ座さんは『鳥、鳥、鳥』の記事中、領土問題に関して以下のように語っています。
疑問がある。
「もし」であるが、ロシアが善に目覚めて、突然「千島列島の全ての島と、樺太と、シベリアの東海岸は日本が平和的に開発し自分の領土としたものだから、すべてお返しします」と言ったとしよう。
多くの日本人は、提灯行列でもやって喜ぶのだろうが、それではあの極寒の島と、冬にはマイナス30度になる樺太・シベリアへ開発のためによろこんで行く日本人が何人いるだろうか?
最初は嬉しさと興奮で頑張るだろうが、数年すればホトンドの移住者は帰ってくるのではないか。
日本には今でも多くの離島があるが、全部の島で人口減少に苦しんでいる。数十年後には多くの島は無人島になる。
それどころか日本全体で2050年には人口は一億人、2100年には人口は4.000万人。この調子で行けば、250年後には最後の日本人が列島に残されることになる。
今ある多くの日本領の島では、人口流出に悩んでいるのだ。
そして大学生は、大きな安定した会社へ入りたがっている。
まちがってもシベリアや、樺太へ魚を取りに行かないだろう。
領土が帰ってきたとして
誰が千島列島や、樺太を開発し、そこに住み、家族を作り、学校を作りるのだろうか。
「日本を守れ」とのデモ行進だ。それは良い。守るべきだ。
しかし、誰も住んでいない、漁師も行かない、一切の開発が行われていない無人の島。日本人が島に上陸することすら禁じられている。
それでもはたして領土と呼べるだろうか?
日本人が一人もいない無人の島を守る?何のために?先祖が昔、苦労して開発したからか?
それなら日本中に何千という限界集落がある。数年後には廃墟、廃村となる。それは守らなくて良いのか?朽ち果てるままで良いのか? 転載終わり。
同様な感覚が大相撲にもあります。
日本人が離島に住みたがらないように、日本人の多くは大相撲をやりたがりません。
相撲に一生懸命でなくても淘汰されないのは、角界に入る日本人の質が低下しているからかもしれません。
もしくは、日本人自体が一生懸命に価値を見出さなくなっているかも知れません。
費用対効果。
努力の費用対効果を鑑みた時、大相撲より魅力的な世界は多々あります。
私を含む多くの日本人が費用対効果を鑑みて行動する以上、相撲界は益々、衰退して行く様な気がします。
他のスポーツと比較して大相撲の給与が同じか上回っていた時代。
大相撲は栄えていたと思います。
しかし、グローバル化した時代、他の競合スポーツと比較され、かつ、横綱にイチローのようなサラリーを出せなくなった時から、大相撲の質的低下は止む得なくなっているのかもしれません。
強い日本人力士が少なくなったのは、単純な話です。
そして強い力士を求めて、日本の伝統文化を知らない外国人にそれを求め始めてから、相撲の方向性が定まらなくなってきました。
私の様に大相撲に一生懸命を求めるのなら、年6場所は多過ぎるかもしれませんし、地方巡業も多過ぎるかもしれません。
が、一方で商業主義に走らないと、大相撲が魅力的に映る様な給与を相撲関係者に示す事が出来きそうにありません。
先代の若乃花(二子山親方)は、力士を励ますため『土俵にはカネが埋まっている』とも言ったそうです。力士の多くは豊かな生活を夢見て相撲生活を送ります。
そして懸命に稽古します。
それは私達も同じです。
しかし、他職業に、より簡単で、より安全にリスクを負わず豊かになる手段があったとしたら・・・
日本の限界集落問題や離島、それと同じ軸線上に大相撲の悩みの深さを感じてしまいます。
これは日本のイロイロな諸問題に通じる気もしますが、
以下、『鳥、鳥、鳥』より
人間、明日のことなんか分からず今日を生きているのだから、当たり前といえば、当たり前の話だ。
何となく分かったような顔をして、テキトーなことをしゃべるのが上手い人が、「評論家」とか「進歩的文化人」になる。
小生、「進歩的」でもなければ「文化人」でもないのである。もっともそんなことは、ワザワザ宣言しなくとも誰でも知っている。
私も同じですので、その辺の難しい事は関係者に丸投げしたいです。
というわけで、私は相撲界の消費者たる立場も合わせて放棄する事にするとします。
私には相撲について何かを言う権利はないのでしょう。
残念ですがそんな気がします。
気がしますが、想ってしまいます。
ただ、自分のエゴを知るが故に、
この記事をもって基本的に相撲に関して発言するのは控えたいと思っています。
安芸の島関の頑張り、現、高田川親方の頑張りを知るが故に複雑ですが、自分のエゴが出てしまうが故に発言を控えたいと思います。
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2011年02月13日
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大相撲が八百長問題に揺れている。
最も、私は、今のメッキの剥げた大相撲に興味がない。
昨年の朝青竜、それに続く賭博問題、協会側の対応にほとほと失望していたからだ。
その場しのぎの対応にウンザリ気味である。
そして、どうやら今回もトカゲのしっぽ切りで終わりそうだ。
本来なら、記事自体を書く事自体が憚れるのだが、御友達プロガーが書いた記事を読み、それに触発されて記事を書こうと思う。
記事を書く前に自分と相撲の関わりについて簡単に書くと、個人的には相撲について詳しい部類とは思っている。
幕内力士を総て暗記できるほど相撲を見ていた時代があったからだ。
そして、将来有望な若手下位力士を見つけ応援するのが好きだった。
その中でも益荒男と安芸の島が好きだった。
(他には寺尾と小錦の取り組みも好きだった。あの寺尾の頑張りに応援していた。)
双方、伴に一芸に秀でている。
一芸と言うと何かの業みたいに感じるが、強いのだが弱いのだがわからないのだ。
益荒男は十両最多優勝の実績が示す通り、下位にいる時は強いのだが、幕内上位に上がると弱く格上にはまったく歯が立たなかった。そして、十両最多優勝の名に恥じず、何度も十両へ転落し格下には無類の強さを発揮していた。
逆に安芸の島は最多金星(大関、関脇、小結、所謂、三役以外で横綱から勝つと貰える弱者(?)の勲章)の名が示す通り、強い人には、その相撲が通じるのだが、なぜか格下からの取りこぼしが多く、関脇、小結にも中々定着出来なかった。格下に弱いのだが、なぜか全盛期の巨体力士、小錦に強くバッタバッタ倒していたのが印象的でもあった。小錦の苦手意識を感じる取り組みは見ていて非常に面白く感じたモンである。
が、安芸の島が2003年に引退して以降、相撲に興味と関心を持てなくなっている。
面白い取り組み、力士が少なくなったと感じるからだ。
何か作られた感を感じる力士だらけになったように感じてしまう。
これは個人の主観であるので仕方がないのだが、土俵から一生懸命を感じる力士が少なくなったような気がする。(まぁ、日本人自体が努力に否定的になったから、当たり前なのだが。。。)
私はスポーツ全般が好きだ。
寿命が短く、競争が激しい故に、密度が一般社会と比較にならないほどスポーツの世界は濃く感じる。
その濃さに感動を覚え、華やかな世界と、それを支える底辺を想い、その見えない努力、一生懸命に想いする。
勝負という一瞬の境目に、その人の一生懸命が凝縮した瞬間に、得体の知れないカルタシスを覚える。
例えムダでも、私は一生懸命に強い感動を覚える。
囲碁、将棋、歩く事、走る事、泳ぐ事、山を登る行為、柔道、剣道、スポーツだけではない趣味(アニメ、漫画、盆栽、演芸、園芸、、、)と呼ばれる世界全般の一生懸命に感動を覚える人は多いと思う。
その延長線で想いのこもったプログ記事にも強い関心を覚える。
特に伝えたいという想いのこもったプログ記事にだ。
無意味な事でも何か一生懸命に感動を覚える瞬間があると思うが、私は一所懸命が結実する仕合せな瞬間(その喜びを見るのが好き)を見たいだけかもしれない。
だが、その一生懸命が報われるとは限らない、それが人生とも思う。
そして、そこに自分の人生を重ねているのかもしれない。
ところで、今回の八百長問題、その一生懸命に疑問符が付く出来事だった。
しかも、金銭の授受の伴なった八百長である。
自分の生活を守る事を、利益を受ける事を目的とした金銭授受。
談合である。
今の所、相撲協会の内部問題であり、刑事問題に発展し難いが、警察は八百長と相撲賭博問題をセットに捜査を続けている。
刑事事件に発展をする可能性をもった事件でもある。
非常に生々しい話だ。
一般的に関係者が互いに賄賂を贈る事で、互いに、その地位を維持し始めたら、多くの場合、その世界の質は落ちるだろう。
大相撲は興業だから、八百長も是とする意見もあるが、それならば歌舞伎やプロレスを見れば良く、そして何より興業という中の八百長に彼らは一生懸命になっている。
今回の大相撲の八百長に一生懸命はあるのだろうか?
一応、ばれない程度の努力はしているが、目的の方向性が間違っているのは言うまでもないだろう。
俳優のウソや歌舞伎のウソ、そこに一生懸命を感じるが、大相撲の八百長に一生懸命があるのだろうか?
その一生懸命と大相撲の八百長。
比較されたら、おそらく、その業界の人達は怒るだろう。
懸命に頑張らなくても良いとい言う相撲ファンもいるだろう。
が、私は関係者が一生懸命になるからこそ、そこに輝き、価値を見出す。
一生懸命=情熱、パッション。
芸術品に迫力を感じる時がある。
あれに情熱という名の一生懸命を感じるからだ。
モノ作りに携わって思うのだが、設計、開発にも情熱がある。
その数値に真剣さがあり、その真剣さのやり取りに八百長はない。
もし、八百長があったら、私は失職しているだろうし、今の地位にいないだろう。
一生懸命故に、己に自負があるからこそ、誇りがある。
努力の感じない、誇りの感じない八百長に私は興奮を覚えない。
故に暫く大相撲を見ないだろう。
個人の主観で言うなら他の一生懸命、将棋の方が余程、私は面白く感じる。
あの張りつめた空間に、一方の日々の一生懸命を一方的に否定する勝負の非情さに、カルタシスを覚える。
一生懸命に価値を見出すのは日本の伝統文化だったと思う。
逆に強制しているぐらいだった。
懸命に生きるから、価値が生まれる事もある。
そこに価値があると感じる人もいるから木戸銭を払うのである。
俺、何ちゃって東大生、こんなにバカなのに高学歴だと自慢する御人が最近、増えたが、効率を重視するあまり、日本人は何かを忘れてしまったのかもしれない。
その延長線上に大相撲の八百長問題を感じる。
日本人が努力を否定し、安易な道に流れ始めた結果、その影響を相撲界も受けているのかもしれない。
彼らも日本人なんだから。
ところで、私の大好きな安芸の島は八百長問題について、こうコメントしたそうである。
「命をかけてきた者からいえば信じられない。八百長に関わった奴は腹を切って死んでもらいたい」と。
何だかんで言っても、安芸の島が相撲に携わる限り、私は私の主観で大相撲を眺め続けるかもしれない。
相撲界ガンバレ。
自己の可能性を信じない(努力を放棄する)子どもたち
もっと努力を評価すべきでは?
大学生の学力低下に想うー内田樹先生記事抜粋
http://blogs.yahoo.co.jp/k99999five9/12720298.html |
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