過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

悲観論と『思いやり』

日常と非日常
を読んで、
 
人間心理の一つとして、楽観論は連帯感を生みださないと思いますが、悲観論は時に強い連帯感を生みだします。
強大な敵の前に個々が無力と感じた時、その対処法として人々は団結を無意識に意識します。
危機に接した時、国よっては個人を優先する場合も多々あると思いますが、一連の情報に接し、日本は回りを優先する意識が非常に強い国である事をあらためて認識しました。
 
被災地と関連のない地域での、ある特定物資の不足に対し、多くの日本人は批判的でした。
所謂、日本の誇るベキ、世間体という名の抑止が如何なく発揮されたのだと理解しています。
 
悲観的な情報に接した時、その情報にどう接するかで、その国の民度がわかるような気がします。

その意味で多くの日本人が、悲観的な情報に接した時、個人の生存を優先するのでなく、協力を訴えかけた事は大変うれしい事でした。
プログ情報を始め、我々は一つの群衆情報の一体です。
その群衆心理を正しい方向に導けるとしたら、それは一人、一人の思いやりのあるなしと私は思っていますし、信じています。
 
今回の震災に関し悲観的な情報に接し、その情報源を断つ方もいますし、同時にその情報の出し方を批判する方もいますが、それはそれで一つの応えと思ってはいます。
 
思ってはいますが、悲観的情報に批判的な人達は、どこかで日本人の『思いやり』を信用していない部分があったのではないかと思っています。
 
 
社会が混乱したとき、何を優先するのか?
 
 
悲観的な情報に接し、その情報に関して他者を優先する『思いやり』を表明し合う事で強い連帯感をプログ世界で感じるのは、日本の誇る『思いやり』文化の一つの発露だったのではないかと私は思っています。
 
計画停電の当事者であり、原発の影響も多少なりと受ける立場に私もいますが、『逃げない』で言明しました通り、私は東北地方の人々の避難の優先こそを望んでいますし、今も望み続けています。
 
それは、素直に他者への『思いやり』の発露と個人的に理解しています。
 
悲観的情報に接した時、単純に怒るのでなく、その影響で社会が混乱するのを恐れるのでもなく、より困っている他者への『思いやり』に想いを変える力を多くの日本人が持ちえた事に強い喜びを感じます。
 
危機は未だ去ってはいませんが、日本人である事に強い誇りを私は覚えずにはいられません。

日常と非日常

日常と非日常
 
 
イメージ 1
 
 
 
今度の地震はそこに住む人の日常を、突然に奪っていった。
 
東京の友人から、3月11日(金)地震発生の日に都心から帰れなくなり、しかたなく会社に泊まったと連絡があった。
それまでテレビや映画の世界でしか見たことのない世界が、突然自分の周りに出現したようだと告げられた。
 
コチラ側から見て楽しんでいた、アチラ側の世界。それが逆転し、コチラ側の世界と、アチラ側の世界が入れ替わってしまったのか。
自分が映画の一場面の中へ、突然放り込まれてしまったかのような感覚。
 
 
 
 
大阪に住む私に取って、今回の巨大地震は、すべてテレビの中からやって来た。
大阪でもかなり揺れがあった。その後テレビをつけると、アチラ側ではタイヘンなことが起こっているのがわかった。
津波のスゴサをテレビ中継で見る。恐ろしい破壊力だ。
 
 
 
しかしテレビから目をはなせば、そこには何気ない普段と変わらぬ自分の部屋があり、妻や子供たちがいる。
スーパーへ買い物に行けば、まったくいつもどおりの賑わいがあり、商品が並べてあり、特に変わったことは何も無い。
 
注意深く見ると、電池売り場から単一電池の場所がカラッポになっているとか、婦人の生理用品がないとか、その程度であり、多くの人は気づかずに通り過ぎていく。
 
 
 
 
 
最大の関心事は、福島原発であった。
このブログを読み返してみても分かるが、地震三日目の土曜日の朝まで、私は楽観的であった。
原子炉には制御棒が挿入され、核分裂は停止し、あとは余熱をとるだけの作業で、多少の放射能漏れがあったとしても、暴走や再臨界などあるはずもないと、たかをくくっていた。
 
 
それが崩壊熱の除去に失敗してから、にわかに危機的状況が出現。加圧炉の爆発の可能性が出てきた。
この時点で、自分の頭中で、悲劇のドラマが始まった。
 
 
原子力発電所の爆発と、大量の放射能の拡散。チェルノブイリの再現。これを想像した瞬間から、自分はドラマの中へ連れ込まれた。
想像力のドラマの世界へ・・
 
 
 
イメージ 2
 
 
東北地方の1/3が使えなくなる。大量の避難民。
何時爆発するかもしれない原発・・・・それを想像すると、自分の周りを眺める目は、非日常へと変化した。
 
ただ目に見える現実は、まったく普段と変わらない。ただやってくるかもしれない悲劇を想像する時だけ、自分の頭の中で非日常が動き出す。
 
 
 
この奇妙なアンバランス。
ブログ記事で危機感に満ちた記事をアップすると、共感を寄せるコメントが入る。ブログ上での危機の共有が始まった。
中に、極めて楽観的な主張をする人がいた。
 
私はそのコメント主に噛み付いた。
「空想的、楽観論にふけるな」と・・・・本気でいかった。
 
 
 
それを今振り返って、笑えるだろうか?
危機は確かにあった。人間の頭の中で、、、、可能性として。
 
 
 
 
 
 
 
悲観論 → 非日常
楽観論 → 日 常
 
 
我々の日常生活を支えているのは、楽観論である。
人は、知らず知らずに楽観的に生きている。それがなければ社会は成り立たない。あした地球が滅びると分かっている時に、誰がきょう会社へ行ったりするだろうか。
 
そして悲観論は、強い連帯感を生み出す。
それは福島原発事故を、必死で修復しようとして働いていた人々も同じであろう。
「ナンとしてでも、炉の爆発を防がなくては」という真剣な思いだ。
 
 
 
その強烈な意思が現実を変えていく。
その結果、悲劇は回避された。
 
 
 
 
不思議な人間の心の働きと、その結果に驚嘆するのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 

転載元転載元: みずがめ座の時代

開く トラックバック(1)

全1ページ

[1]


.
K9
K9
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(11)
  • Yada
  • yatugatake
  • フレディ
  • あい
  • seitaisalonoasis
  • ロベルト・ジータ
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事