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人生は屁のごとし

 
 
 
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人生は屁のごとし・・・
 
 
 
人気の内に終了したNHKのテレビ小説「ゲゲゲの女房」の中で、
ゲゲゲこと水木しげる役の俳優が言うセリフである。
 
 「屁のごとし」などと言い切ってしまうと
なにやら不謹慎で、
懸命に生きている人のことを
揶揄しているようにとらえがちだが、
決してそうではない。
 
 
ゲゲゲのダンナは女房にこんな風に言うのだ。
 
 
「人生は屁のごとし。
 笑われもするが、嫌われもする。
 束の間のものだが、しかし面白い。」

 
たとえは品がないが、
まさに屁とははかないものである。
人生も、捕らえどころのなさや、
その泡沫(うたかた)な様は
いや、これは私の場合に限ってだが、
まさに屁のごときなのだ。
 
 
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若い頃、同じ釜のメシを食った二人の友人が
時を同じくして、同じ病にかかり
病と闘っている。
 
一方は、これまでに入院などとは縁のない
豪放磊落な
もう一方は、様々な病気で何度も入退院を繰り返し、
俺の人生は闘病が半分と言い切る
 
二人は入院している病院だけは違うが、
病気の度合いも、治療法も全く同じ。
ところが、片や緩解、片やこれ以上の治療なしと、
ある意味明暗を分けている。
 
緩解したのは
今月から職場復帰をしたはずだ。
8月の終わりにの家に行った折、
いくつもの手術跡を、
幾分得意げに私に見せながらが言った。
 
「いっぺい、俺の勲章だよ、この傷。
 ひび割れた茶碗みたいだろ?
 そう、人間の身体はさ、
 ヒビの入った茶碗と同じなんだ。
 気に入った茶碗なら、
 たとえヒビが入っていても
 漏れなきゃ使うだろうが。
 
まっさら健康な人間なんて
 そう、ざらにいるモンじゃない。
 おまえだって、身体のどっかにヒビがある。
 修理して、漏れなきゃそれでいいんだよ。」
 
 
何度も生死の境を乗り切ってきたGの言葉には
大きな説得力があった。
 
 
これまで大きな病気をしたことのなかった
今、絶望の闇の中にいる。
そして、そんな彼に対して
私は何一つ掛ける言葉がない。
 
彼の細君から、
セカンドオピニオンを与えてくれる
医師を紹介してほしいと言われ、
心当たりを探したが、
が受けている治療法以上のものはないと
医師から言われてしまい、
それをどう伝えたものかと、悩んでいる。
 
 
 
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              「宇宙服の中ではおならをしてはいけません!」
 
 
 
55歳という私の年齢は、
老境の入り口ではあるが、
決して人生を卒業する歳ではない。
しかし、どんなに健康であったとしても、
多くの同輩が「死」というものを、
否が応でも意識し始める年回りだろう。
 
 
もちろん「死」を意識すると言っても、
どんな死に方をするのか、
病死なのか、自死なのか、
それとも事故死なのか・・・というように
「死」を直接考えているのではない。
 
今、自分が終わってしまったらどうなるのか・・・
 
つまり残された者の今後や、
これまで生きてきた私の
生き様の残滓をどう始末してもらうかという、
終焉の仕方を意識するのだ。
 
 
言い換えれば、
これまで生きてきた事の後始末であり、
さらには残された日々で何を成すのか
つまり、どう生きるかという「生き方」の問題である。
 
 
 
は、何度かの生死をかけた療養の果てに、
たぶん、いろいろと達観したのだろう。
 
は、今、命の期限を宣告されて、
思い悩んでいるに違いない。
 
 
さて、私はというと、
父母ともに癌家系であり、
親族の多くが癌で亡くなっていて、
二人にひとりは・・・などといわれる現代、
間違いなく、罹患するひとりの方に属している。
 
 
いつかは知らぬが、間違いなく訪れる終焉の時。
そのときにむけて、
知りうる限りの事を知り、
成すべきはすべて成し、
できうる限りの経験をし、
会って語るべきを尽くす・・・・
それが、私の「死」への意識である。
 
 
 先日、政治学者の姜尚中(かんさんじゅん)氏の
インタビューを見る機会があった。
ベストセラーになった彼の「オモニ」という本を書いた動機は
母がこの世に生きた証を残したいという思い、
そして、決して特別ではない、
ただの自分が、生きていた証を残したいということだった。
姜氏は墓に刻まれるだけではない「証」というのだが、
やはり、それができるのは「特別」な人だけである。
 
私は、自分の倅ぐらいしか、
生きてきた証・・・などは無いのだけれど、
人に見せるような証などは
無くてもいいではないか。
少なくとも自分自身の心の中に、
喜びも、苦しみも、悲しみも、痛みも、
すべてを受け入れ、
それを「経験」とするのだ。
それが自分の生き方の証なのだ。
 
 
はかなさにおいて、
まさに人生とは屁のようなものに違いない。
だれかには、臭いと嫌われ、
又だれかには笑い者にされる。
しかし、
それは、すべて自分から発するものであり、
おもしろくも悲しき生き様は
他人の評価を目的としないのだ。
 
 
 
そんな風に考えてみると、
Gの言った「ヒビの入った茶碗」の話は
その中に、何を入れるかが重要だと言うことに気づく。
すべてを受け入れ、
すべてを未知なる体験として楽しむ・・・
Gは、余命告知さえも
毎度そんな風にとらえていたのかもしれない。
 
 
「死」を意識するということは
同時に「生きる」ということを考える事である。
これまで「生かされていた」事を認識し、
「生きる」事を考える、反テーゼなのだと思えば良いのだ。
 
何のことはない。
軽く生きてみよう。
つらいことも、悲しいことも、腹の立つことも、
すべては、おもしろい新たな体験なのだ。
 
 
そうです、たかが私の人生、屁みたいなモンですから
 
 
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転載元転載元: 徒然道草・・・してばかり♪

根無草

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/60/02/yada_yada_810_810/folder/749681/img_749681_33788139_0?20100825161824

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/60/02/yada_yada_810_810/folder/749681/img_749681_33788139_1?20100825161824

今年の春に母が亡くなり、父も老人ホームに入居する事になった。
まだまだ元気でゴルフなどしてるのだが、もしもの事を考えて自立型のホームに入居する。

それに伴い私の実家は取り壊し、更地として売られる事になる。
私にとっては生まれ育った故郷なのだが、父にとっては会社に行けといわれたから住んだだけの場所。
家を建てた後も単身赴任などが多く、それほど思い入れのある場所でもないらしい、単なる「赴任地」。

私も今は会社に言われた別の町にアパート借りて暮らしているので、帰って維持する事は出来ない。



本や食器など両親がこれまで集めてきたいろいろなものがあるのだが、これも処分せざるを得ない。
本などなかなか貴重なものもあり引き取りたいのだが、アパートの一人暮らしでは引き取りようもない。

結果、家も取り壊し集めてきたものも全て処分、全てを失うより他にない。

[[attached(1,center)]]

帰る家がなくなるというのは、私にとっても大きい。
都会のアパートの一人暮らし、それを支える収入が一時的にでも途切れれば、帰る場所がない。
住む場所を失い家財も処分、カメラは燃えないゴミで撮り貯めた写真は燃えるゴミにでもするしかない。
とりあえず実家に引き払って庭に畑でも作ってしのぎながら再起を目指す、そんな事はもう出来ない。

全てを失うリスクがすぐそこにある、綱渡りの、崖っぷちのの生活。

そしてそれを支える収入源は、赤の他人の気分一つでいつ失われるかわからない。

先祖代々の家に住み物置整理すると色あせたおじいちゃんの写真、そんな物語は私の周りには全くない。
考えてみれば、実家にも両親の残したものはいろいろあるが、祖父や祖母の面影は全く見当たらない。



先祖代々の土地に縛られるのも、もちろん厄介ではある。
しかし、何も持たない都会の根無し草、根っこのない生活、これもまた寂しい。
帰る場所もない崖っぷち、一生懸命残した趣味も財産も、自分と一緒に全て消え去り何も残されない。

川端康成の「雪国」、あれは都会に破れた人間の物語だっただろうか。
だけどあの主人公はまだ恵まれている、都会で破れても「帰る田舎」があったのだから。

帰る場所がない、全てを失う場面がすぐそこにある生活。
何も残す事ができない、自分と共に残してきたもの、集めてきたものも全て消えてしまう生活。

根っこがない、逃げる場所がない都会の漂流生活。

[[attached(2,center)]]

それでも私や父はまだ幸せなんだろうか。

退職金で老人ホームで趣味をしながらのんびり暮らす事ができる。
私もまあ実際、最悪の場合にはちょっと位親のす脛かじってなんとかなりそう。

うちの父は年功序列、終身雇用の世代。
そこらの普通のおっちゃんが1千万円とか平気で持ってる、恵まれたごく短い時代の人間。
このお金が、老人ホーム、ニート、就職浪人、いろいろな形で高齢化とか就職難とかを裏から支えてる。

でもそんな時代はもう終わった、これからの人間には、そんなお金はない。

帰る土地も支える金もない、何もない都会の根無し草生活、これから一体どうなっていくのだろう。
なんの根っこもないままがけっぷちの綱渡り生活を、続けていくしかないんだろうか。


支えるものもなければ残せるものもない、そんな刹那的な根無草生活が「普通」になってくんだろうか。
常に滅亡を間近に見ながら暮らして行くのが、「当たり前」になってくんだろうか。

転載元転載元: 見たものを見たままに

頑張れの意味とは?

頑張れ、その言葉は、バブル崩壊以前から徐々に、そのイメージが悪くなり、今や使い方が難しい日本語になりつつあると感じる方は多いと思うが如何であろうか?

古くは、40年前、アニメの主人公である鮎原こずえが、頑張れなんて言葉、気軽に使わないで下さります?
っと言っているらしいので、昨日今日の話しでなく、長い時間をかけて徐々にネガティブイメージが浸透して行ったようである。

日本人が頑張れを嫌い始めた理由はイロイロあるとは思うが、一つに頑張れを言われた受取り側に私はこんなに努力しているのに、未だ努力しなさいと、努力不足を指摘されたと感じ不快に感じる事であり、また、努力ではどうにもならないと本人が感じている時、頑張れは困るだよね的な状態のようである。

他人の見えない苦労はわからないのは確かにその通りだが、頑張れは本来、そんな重いモノでなく、あともう少し、若しくは内容でなく本人の努力に対する純粋な応援や賞賛だったわけで、使い手側に悪意はなかったと思われる。
その場合は良い意味での頑張れになるのだろう。

そして、英語のDo your bestのようように、その結果は問わず、その努力の如何に関わらず、良くやったね、だったのだと思う。

しかし、近年の頑張れの使い方は、努力の中身と、場合によると、その結果のみで言われるようになって来ており、非常に使い方が難しいというか、相手を批判し易い言葉になりつつあると感じている。

所謂、あいつ頑張ってないの登場だ。
この場合、このコトバは文字通り相手の努力不足を責めるコトバである。

人事を尽くして天命を待つモノに、その人事の尽くし方を詰るのである。
そもそも人事の尽くし方自体、定量化出来ないものだから、互いに主観的な話しであり、それを当時者でない第三者が批判するのに使い始めたのである。

努力は偉大であり、あらゆる困難にうち克つ力があり、同時にそれはある種の犠牲を必要とするモノなので、その犠牲に対し努力するかしないかは、おそらく自己責任で決めるモノと思われるが、その判断自体に回りがケチをつけ始めたのである。

今のあなたの境遇、その他モロモロはあなたの自己責任だ。
自己責任で頑張るのは当然だ。
助けを、回りに求めるのは論外だ。
あなたの過去の努力不足が原因だ。
だから、頑張れ。
私達に迷惑をかけるな。

悪意をもった頑張れの登場である。
こんな使い方がいつ頃か増えて行き、努力不足というより、自己責任、つまりは結果責任を責めているわけで、内容に関らず結果が悪ければ、本人の努力不足だから、本人が自己責任の範囲で頑張るしかないだろう的に使われるようである。

要はプロセス無視の結果至上主義である。

派遣解雇の掲示板での議論がプログ開設の動機なので、この手の努力不足を詰る自己責任論と、最後に本人の責任で頑張れは、聞き飽きるほど聞いたので、この悪意ある頑張れも、日本にかなり定着していると感じる。

結局、日本人に相手を思いやる気持ちがなくなり、自分に被害が及ぶ事を恐れ、相手に頑張れと言う場合もあるようであると感じている。

本来、結果を問わず相手の努力を賞賛し、あと少しだよね的な頑張れが、いつ頃か、結果を問い糾し、相手の努力不足を詰り、もっと、もっと頑張れ的な使い方が多くなった事で、この頑張れの印象が大分、悪くなったような気がする。

そもそも、コトバとは時代、環境に応じて変化するのだから、特段気にする必要がないのだが、結局、思いやりのエッセンスがないコトバは如何に良いコトバでも、その輝きは消え悪意だけが残るのだろう。
そんな気がする。

逆に悪意味のコトバも、思いやりさえあれば、良いコトバになるのだろう。
ツンデレがそれか?
ふっと思った。
多分。。。

 
寛容性
他者の価値観や行動を容認する心理特性。
 
寛容性の在る無しとは、怒りに対する沸点が高い(感じ難い)低い(感じ易い)と、言い換える事も出来ると思う。
憤り、怒り自体がなければ、我慢する必要もないわけで、社会全体がギスギスする必要もないと私は考えている。
勿論、限度はあるが、
 
子どもはギャーギャー煩いのは当然であって、その行動自体(大人の常識がない子どもに対し=教養のない子ども)を咎めるのは難しいだろうと私は考える。
 
その一方で、寛容性が低くなった日本人は、煩いその事、自体を責める事が多々ある。
その子どもを注意しない親に対しては、十分、その理由になると思うが、問題は子どもが煩い事自体を不機嫌と感じる大人が増えている事だ。
 
最近は電車やホームで飲み食いしている事を非難する大人が増えているが、それも同じである。(満員電車はわかるが。。。)
喫煙者と禁煙者の会話も同じだ。
 
総てが自己の価値観で世の中を俯瞰しており、その価値観を外れるモノに対して受容性が著しく低くなっている気がするのだ。
 
だから、国母君の服装問題のように互いに、互いの価値観を押し付け合う、醜い争いになるのだろう。
(国の代表として、国民の想いに応える公人の義務がある国母君が、国民の疑問に対し『ちっ、うるせなぁ〜』と答えたのが問題であって服装は枝葉)
 
 
互いに異なる価値観の基、互いに自己の価値を基準に『気遣い、思いやり』を求めても、すれ違うだけである。
 
 
もう少し、異なるモノに対する受容性、その根底にある寛容性が、私は日本社会に必要ではないかと感じている。
寛容性が低く、怒りや憤りに対する沸点が低い状態で、ただ、闇雲に『思いやり』だけを求めあっても、おそらく余計に社会がギスギスする結果になるだけだ。
 
ヨーロッパ社会の根底を形作った古代ローマ帝国は、その高い寛容性(クレメンティア)をもって、ヨーロッパという国の基本を築いた。
彼らは、征服した民族の文化、慣習、宗教を認める事で、彼らを同胞とし、その支配領域を広げて言った。
おそらく、その高い寛容性ゆえに、その支配はかなり穏やかであったと、私は考えている。
 
同時に多文化、異なる価値観を受容できる社会は一般に自由で活力があると言われているから、さぞかし古代ローマ時代は活力に富む時代であったと推測している。
 
また、この穏やかな統治と、緩やかな同族化はローマに征服されたにハズの民族の国々に対し、ローマ帝国の継承者を名乗らせる原動力にもなっている。
 
一方、古代ローマ帝国を精神的に征服したキリストの考えはどうかと言うと、民族の文化、習慣、特に宗教は認めず、ひたすら自己の価値観を押し付ける非寛容な政策を過去、行って来た。
そして、その非寛容な政策は中世暗黒時代と言う文明の停滞期をヨーロッパに招く原動力ともなり、長期間にわたりヨーロッパは世界の途上国として苦しむ事とになったのだが、何とも皮肉な話である。
文明の先進国が、文明の後進国になったのである。
街道や水道、下水道等が完備されていたローマ時代は、過去になり、元のインフラが整備されるのにヨーロッパは相当な時を待つ必要があったわけだ。
 
そして、古代ローマ帝国と違い、キリストに征服された国々が、キリストの後継者を名乗らないのは彼らの排他的性格ゆえだ。
何せ、同じキリストでも宗派が違うだけで未だにいがみ合っている状態だ。
 
キリスト教は、キリスト教(同じ宗派に属していない異端も含む)に属していない人達を永く人と見ていなかった。
だから、黒人奴隷(家畜と同じ)がいても論理的に破綻しなかったし、異教徒を殺しても、それは殺人と認めなかったわけである。
キリストにとって命とは永く不平等であったのだ。
その教義が変わったのは、つい最近の話である事に注意を促したい。(近代において初めて教義が変わり始めた。)
 
今、世界はグローバル化という多文化、異なる価値観が混在する雑多な世界になりつつある。
勿論、同時並行で価値観の均一化も行われているが、そのストレスたるやかなりのモノだろう。
文明の対決とも言われている西洋社会とイスラム社会の対決は、グローバルがもたらした悲劇だと私は感じている。
 
そのような世界で生き残るとき、自身の価値観と違うモノに対し、寛容であるか、非寛容であるかでは、その将来において、大きく結果が違うと私は予測している。
 
さて、上記命題に対し日本社会は、どの道を選ぶのだろう?
 
私は断然、古代キリストより、古代ローマこそを推奨したい。
結果を見れば、古代ローマ社会の実現は日本に大きな果実をもたらすと考えているからだ。
 
その高い同質性ゆえに『思いやり、気遣い』を発揮できた日本社会は、その同質性が崩れていく事で苛立ちを覚え始めている。
その対策は、無理やり『思いやり、気遣い』を発揮させる事でなく『クレメンティア』こそが重要ではないかと私は考えている。
如何に『クレメンティア』をもたらすか?
鳩山の友愛はある種、価値観が違うモノ同士に無理やり『思いやり、気遣い』を発揮させる事を目指した政策だった。
たしかに、社会はギスギスしなくなるかもしれないが、何か違うような気がする。
(誰かが我慢する社会になりかねない。もしくは互いに、その『思いやりの無さ』を批判し合う社会か?)
 
『思いやり、気遣い』の前提条件は相手を理解出来る土壌があって発揮出来るのであって、その土壌が弱い状況では理想でしかないだろう。
現実として世界を見渡した時、中々、人間は分かりあえないのが、現状である。
 
ならば、その前提の前に、理解しなくてはいけないのでなく、違っている事を是認しあう事を前提とした寛容社会なら、どうだろうか?
かなり、社会は穏やかになると思うし、同時に『思いやり、気遣い』も発揮し易くなるのではないかと思う。
 
非寛容な社会は嫌いの対象が多い社会であると言える。(不機嫌な社会)
嫌いが前提では、益々、『思いやり、気遣い』は発揮できないだろう。
前記事で『思いやり』の基本は、相手への理解であると主張したが、
そもそも嫌いなモノを人は理解しようとするだろうか?
 
まずは、他人と自分は違う事を前提に、寛容な心を持って接し合う事から、始める事こそが大事だと私は思っている。
 私は、『気遣い、思いやり』の基本は、相手を理解することだと考えている。
 
なぜか?
それは相手への理解なくしての『気遣い、思いやり』は空ぶりしかねないと感じているからだ。
場合によると、理解のない『気遣い』が相手の心証を悪くしかねないし、
さらには、自身の『気遣い』がムシされる(気付かれない)事でキズつく事もあるからだ。
(ちなみに私は傷つかない方です。(笑)別に自分がしたいからしているからと思っているからで、特に何とも思わないようになりつつあります。つまり、見返りを求めなくなったとい事ですね。以前は何々をしたから的な感覚がありました。)
 
私の良く主張する『思いやり、気遣い』の対象は、良く知っている人、回りの人に対してである。
 
ちなみに、沖縄の基地問題で、『思いやり、気遣い』を求めるのは、彼らが良く知っている日本人(同胞)だと考えているからだ。
が、それも程度差問題で、生活苦しいのって言われても頑張って下さいとしか言わないだろう。
(状況にもよりますが・・・、生活困窮者は各地にいるので、もし助けるなら全体のバランスを見て手助けしたいと考えています。郵便局の非正規は助け、他は助けないという公平を欠くような処遇に私は疑問を抱いく性質です。)
 
ほとんどの人がそうだと思うが、
私の『思いやり、気遣い』にも当然のように粗密があり、関係、関連性、そして私の相手への理解と、相手からの私への理解があれば、より濃密になってゆく場合が多いと感じている。(所謂、縁)
 
つまりは、『お節介』的な関係、気が置けない仲になるだろう。
なぜ?、『気が置けない仲』になれるかと言うと、互いに理解し合い、信頼しあえる事が出来るからだと考えている。
 
理解しているからこそ、相手の真意も伝わるし、信頼しているこそ、相手の苦言、暴言を笑って許す事が出来るのだろう。
これが、互いに理解がなく、程度差によるが信頼関係が築かれていない時に発せられた苦言、暴言を許す事が出来るほど、人は度量が大きいのだろうか?
 
多くは、ココロない発言に傷つき、憤りを覚える事と思う。
 
が、これも相手への理解(相手も私を理解している)、信頼(相手も私を信頼している)がある場合、まったく違った様相を示してくると思う。
 
つまり、私が一連の記事で述べている『思いやり、気遣い』とは相手をもっと理解しようと呼びかけているに等しいと私自身は考えている。
 
相手への理解(互いの理解)なくしての『思いやり、気遣い』など空虚なモノである。
 
コンビニ店員のいっらしゃいませ、ありがとうございましたに、空虚な響きを感じるのも、一つの理由に、互いに相手への理解がないからだと思っている。
(もしくは相手を理解しようとしていないからかな?これはこれで多種多様な理由があると感じてはいます。)
 
もっとも互いを理解し合っているハズの家族において、互いに理解、信頼しあえているかというと。。。
 
日本人は暗黙のうちに互いの理解、信頼を求めあっている。
 
男の『背中で語る』
女性の『変化球』←詳しくはhttp://blogs.yahoo.co.jp/k99999five9/25071222.html
 
上記状況が成り立つ前提は相互の理解だが、人は他人の事を簡単に理解できるほど、賢くないし、まして夫婦同士でさえスレ違うのに、他人に対し真の『思いやり、気遣い』を発揮出来るのだろうか?
 
以前の日本は一億総中流で、同じ立場、同じ環境、同じ年収、同じ家族構成、同じ。。。つまりは極めて同質性の高い社会であったと思う。
 
だからこそ、その高い同質性故に、相手へ(ある程度)の理解が容易であり、それが『思いやり、気遣い』を発揮し易くする土壌になっていたのだが、今や多様性、異なる価値観が混在するカオスの世界だ。(現在進行形、他の国と比べれば、まだまだ同質的ですが・・・)
そんな時代に、互いに理解しあわない状態で、互いの立場を忖度せず、過度な『思いやり、気遣い』を互いに求めあっても、ギスギスするだけである。
 
そんな状態で互いに私の気持ちを慮れと言いあっているのだが・・・
『何か息苦しい時代だなぁ。』
って、
感じる人は多いのではないかと思うのだが、如何であろうか?
 
密度の高い、人間同士なら、その『思いやり、気遣い』は遺憾なく発揮出来る可能性があるが、回りの人、総てと濃密な人間関係が築けるかと言うと、なかなか難しいのが現実だ。
 
ところで、『思いやり、気遣い』の基本である、相手への理解は何でもたらされるかと言うと、私は『教養』が基本であると考えている。
相手への理解とは、モノ(状況、立場、職業、etc。。。)を識っていないと理解し難いからだ。
 
子どもに『思いやり、気遣い』が発揮し難いのは経験値、教養がないからである。
だから、時に子ども達のコトバや行動は、非常に残酷な事、『思いやり、気遣い』のない事をする事がある。
 
じゃ、経験値、教養のあるハズの私達、大人(私も)は、あるのかと言うと。。。
 
相互に理解すべく努めるべきだと思うが、不完全なる我々では限界があるだろう。
ならば、互いの不理解(思いやり、気遣いのなさ)を補える手段、思想の構築こそが必要と感じるのだが。。。
 
個人的にだが、その答えは
古代ローマの理想で「クレメンティア」にこそあるのではなかと思っている。
 
次回、続く

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