|
茨城県の一部で1μ・Sv/hを超える放射のレベルを3/21、15時に確認。
自然放射レベルは0.16μ・Sv/h。
『ただちに健康に影響を及ぼすような』レベルの放射能レベルではないのですが、一般に飛散し難い雨の中での数値。
何事かありなむ。
|
震災・原発
[ リスト | 詳細 ]
|
日常と非日常
を読んで、
人間心理の一つとして、楽観論は連帯感を生みださないと思いますが、悲観論は時に強い連帯感を生みだします。
強大な敵の前に個々が無力と感じた時、その対処法として人々は団結を無意識に意識します。 危機に接した時、国よっては個人を優先する場合も多々あると思いますが、一連の情報に接し、日本は回りを優先する意識が非常に強い国である事をあらためて認識しました。
被災地と関連のない地域での、ある特定物資の不足に対し、多くの日本人は批判的でした。
所謂、日本の誇るベキ、世間体という名の抑止が如何なく発揮されたのだと理解しています。
悲観的な情報に接した時、その情報にどう接するかで、その国の民度がわかるような気がします。
その意味で多くの日本人が、悲観的な情報に接した時、個人の生存を優先するのでなく、協力を訴えかけた事は大変うれしい事でした。 プログ情報を始め、我々は一つの群衆情報の一体です。
その群衆心理を正しい方向に導けるとしたら、それは一人、一人の思いやりのあるなしと私は思っていますし、信じています。 今回の震災に関し悲観的な情報に接し、その情報源を断つ方もいますし、同時にその情報の出し方を批判する方もいますが、それはそれで一つの応えと思ってはいます。
思ってはいますが、悲観的情報に批判的な人達は、どこかで日本人の『思いやり』を信用していない部分があったのではないかと思っています。
社会が混乱したとき、何を優先するのか?
悲観的な情報に接し、その情報に関して他者を優先する『思いやり』を表明し合う事で強い連帯感をプログ世界で感じるのは、日本の誇る『思いやり』文化の一つの発露だったのではないかと私は思っています。
計画停電の当事者であり、原発の影響も多少なりと受ける立場に私もいますが、『逃げない』で言明しました通り、私は東北地方の人々の避難の優先こそを望んでいますし、今も望み続けています。
それは、素直に他者への『思いやり』の発露と個人的に理解しています。
悲観的情報に接した時、単純に怒るのでなく、その影響で社会が混乱するのを恐れるのでもなく、より困っている他者への『思いやり』に想いを変える力を多くの日本人が持ちえた事に強い喜びを感じます。
危機は未だ去ってはいませんが、日本人である事に強い誇りを私は覚えずにはいられません。
|
|
日常と非日常
今度の地震はそこに住む人の日常を、突然に奪っていった。
東京の友人から、3月11日(金)地震発生の日に都心から帰れなくなり、しかたなく会社に泊まったと連絡があった。
それまでテレビや映画の世界でしか見たことのない世界が、突然自分の周りに出現したようだと告げられた。
コチラ側から見て楽しんでいた、アチラ側の世界。それが逆転し、コチラ側の世界と、アチラ側の世界が入れ替わってしまったのか。
自分が映画の一場面の中へ、突然放り込まれてしまったかのような感覚。
大阪に住む私に取って、今回の巨大地震は、すべてテレビの中からやって来た。
大阪でもかなり揺れがあった。その後テレビをつけると、アチラ側ではタイヘンなことが起こっているのがわかった。
津波のスゴサをテレビ中継で見る。恐ろしい破壊力だ。
しかしテレビから目をはなせば、そこには何気ない普段と変わらぬ自分の部屋があり、妻や子供たちがいる。
スーパーへ買い物に行けば、まったくいつもどおりの賑わいがあり、商品が並べてあり、特に変わったことは何も無い。
注意深く見ると、電池売り場から単一電池の場所がカラッポになっているとか、婦人の生理用品がないとか、その程度であり、多くの人は気づかずに通り過ぎていく。
最大の関心事は、福島原発であった。
このブログを読み返してみても分かるが、地震三日目の土曜日の朝まで、私は楽観的であった。
原子炉には制御棒が挿入され、核分裂は停止し、あとは余熱をとるだけの作業で、多少の放射能漏れがあったとしても、暴走や再臨界などあるはずもないと、たかをくくっていた。
それが崩壊熱の除去に失敗してから、にわかに危機的状況が出現。加圧炉の爆発の可能性が出てきた。
この時点で、自分の頭中で、悲劇のドラマが始まった。
原子力発電所の爆発と、大量の放射能の拡散。チェルノブイリの再現。これを想像した瞬間から、自分はドラマの中へ連れ込まれた。
想像力のドラマの世界へ・・
東北地方の1/3が使えなくなる。大量の避難民。
何時爆発するかもしれない原発・・・・それを想像すると、自分の周りを眺める目は、非日常へと変化した。
ただ目に見える現実は、まったく普段と変わらない。ただやってくるかもしれない悲劇を想像する時だけ、自分の頭の中で非日常が動き出す。
この奇妙なアンバランス。
ブログ記事で危機感に満ちた記事をアップすると、共感を寄せるコメントが入る。ブログ上での危機の共有が始まった。
中に、極めて楽観的な主張をする人がいた。
私はそのコメント主に噛み付いた。
「空想的、楽観論にふけるな」と・・・・本気でいかった。
それを今振り返って、笑えるだろうか?
危機は確かにあった。人間の頭の中で、、、、可能性として。
悲観論 → 非日常
楽観論 → 日 常
我々の日常生活を支えているのは、楽観論である。
人は、知らず知らずに楽観的に生きている。それがなければ社会は成り立たない。あした地球が滅びると分かっている時に、誰がきょう会社へ行ったりするだろうか。
そして悲観論は、強い連帯感を生み出す。
それは福島原発事故を、必死で修復しようとして働いていた人々も同じであろう。
「ナンとしてでも、炉の爆発を防がなくては」という真剣な思いだ。
その強烈な意思が現実を変えていく。
その結果、悲劇は回避された。
不思議な人間の心の働きと、その結果に驚嘆するのだ。
|
|
自分の身は自分で守る(自助)
お互いに助け合う(共助)
困った時は助け合おう。
助ける側に回れば気分も晴れる!
日本は日本らしく
我々は我々らしく
ランキング参加しています。「傑作」と下のリンクを「プチプチ」っとお願いします。
人気ブログランキング 政治 https://blog.with2.net/in.php?1067783
にほんブログ村 政治 https://politics.blogmura.com 家は流れ、
家族は流され、
何もかもなくなってしまった。
放射能におびえ、
余震に揺られ、
情報の不足にいらいらする。
あれがない
これがない
助けてくれない・・・
あまりに恵まれた現代日本から、
突然、大昔の日本に戻されたような毎日がつづいている。
だから、行政が、自衛隊が、東電が
と言いたくなる気持ちは分かる。
でも、失われたものは戻ってこない。
気持ちを切り替えて、
前向きにいくしかない。
うちの先代は、
大阪大空襲で校舎を失い、
四方を走り回って新校舎を手に入れ、
取りつぶしを免れたと思った矢先に
ジェーン台風で校舎は全壊してしまった。
その校舎の残骸の上に立って
「校舎は 鉄筋やないと アカンな」
とつぶやいていた人である。
物資も何もなく、
学生は激減し、
借金が増えるばかり、
でもそんな時でも、
希望の中に 幸福を見出し
前向きに進んでいった。
「神戸在住 from KOBE」 3巻 木村紺著 講談社刊より 無くなってしまったものは
どうしようもない。
くれない、くれないと言っていても
しょうがない。
こんな時は、
気分を切り替えて、
前向きに、希望をもって、進むしかない。
避難所に、
救援隊が来てくれる訳ではない。
自分たちが救援隊になればいいだけだ。
すると、その瞬間まで
「被災者」
だったのに、その瞬間から、
「震災ボランティア」
なのだ。
知恵をつかって、
生活を工夫し直す。
落ち込んでいる人を巻き込んで
励ましていく。
つらくて仕方がなかったはずの生活は、
後から振り返ってみると
「結構、おもしろかったで」
と化けてゆく。
マスコミにお願いしたい。
「かわいそう」
はいらない。
「無視」
も困る。
それよりも、
「震災・サバイバル情報」
を流してやってほしい。
ネタはたくさんある。
知恵出せやマスコミ!!
被災地に心を通わせて、
できることで、
ベストをつくそう!
本は日本らしく
我々は我々らしく
ランキング参加しています。「傑作」と下のリンクを「プチプチ」っとお願いします。
人気ブログランキング 政治 https://blog.with2.net/in.php?1067783
にほんブログ村 政治 https://politics.blogmura.com
|
|
現在、枕詞に『ただちに・・・』健康には影響が無い、大丈夫が連呼されていますが、逆説的に長期的には、その限りでないわけでして、そして、その『安全』とは大人を念頭に喧伝されているようです。
逆に体の小さな小さな子供、特に乳幼児には危険な状況とも言え、違和感を感じる報道が続いています。
(特に母乳は・・・)
IT社会ですので情報は所々で漏れ出してはいます。
福島市内の水道水から放射性ヨウ素が検出限界値の30倍の1キログラム当たり180ベクレル検出されたと発表し、問題なしと上記、記事では伝えていますが。。。。
一般に
100ベクレル以上は乳幼児期に危険と言われており、規制の対象となっています。 そして何より母乳への影響です。 嫌な感じです。
不安を煽るわけではないですが、疑問に感じる情報が氾濫しています。
小さなお子さんを抱える親御さんは食品に注意をするのが無難とも感じます。
|




