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MyWorks2010などという書庫をつくっていたのにきがついた。
今年はあと一週間ほどだから この作品が最後かもしれない。ただ未完成。
foto下
現在使用中のノミ&砥石 木の側面が板目なので丸鑿をつかうときに順目と逆目を同時に彫ることになる。彫る面がささくれたりメクレたりしてしまう。いつも切れ味を良くしとかないといけないので砥が近くにある。 緑の葉は、ローリエ月桂樹です。クリスマスリースつくりのとき大枝を伐ったので陰干しに。生は青臭みがあり使えません。こんなに大量には必要ないが、、。
foto上 ヒマラヤスギ h440.Ф330mm
このまま完成として表面の変化は時のながれにまかせるのが私のやりかたなのですが、見る人に対してサービスをしないためかどうもあまり寄って来てもらえないと感じ出して、、私が少し大人になったのか、最近は、作品の表層、直接目に見える場所、表面に変化をつけようとしてもがいている。
私の興味は かたちにある。それも本質的なものに。
材質はあくまでも木、樹、であり、これは生命体としての記憶の塊であり、私はそれを無視して通り過ぎることができない。
初期の発表は人体の形を木を素材につかうことからだった。その材料は、ごく最近まで生き物としてあったということに、気持ちが引っ張られてしまい、半具象半抽象の彫刻から離れた。
木を樹だったいきものとしてとらえ、それをかたちであらわす。
そういえば『きおく の かたち』というタイトルで新宿紀伊国屋のギャラリーで個展をしたことを思いだす。そのころは、木それぞれの個体からそれぞれの形をつくり出す、木なりのかたち、どちらかというと木に出来るだけまかせた仕事をしていた。
勿論こちらの意志がなかったらなにも生まれてはこない。個別の樹にあたりながらも共通するものをかたちにする。
個別にはさまざまな表情をしているものをひとつの概念として整理してあらわす。原理の追求。
この仕事は美術なのか科学なのかと苦笑しながら、、
そのひとつが「スパイラル」「ねじれ」だ。『櫻-捻』というタイトルの個展もある。行為としての刻みから『櫻-刻』の個展もした。
そのあとのシリーズタイトル『原初の海へ』「DAUN」。
原理的な木の形を追求しているという意味からだった。
次に『いのちの うけざら』シリーズ。
この命は、木の命、人の命、そしてあらゆるものの命を思い題した。掌の窪みに受ける形を託している。この時からチェンソーではなく鑿の表現をつかいだした。
このシリーズは今も継続中。
数年前から同時に『co-Tama』のシリーズをはじめた。
co-は、共に、共同の意。(たとえばco-op協同組合)
Tamaは魂、アニマの意。タマフリ魂振りとかコダマとか勾玉とかは縄文時代ですが、金銭がすべての現代でも、心=魂は己のもので、これが生きている証です。
この目に見えないものを、見えなかった木のTamaを かたちか したもので受け皿とするのです。
壮大なずうずうしさですが、押し売りではない。必要な人は必ずいます。
今風にいえば癒しというのでしょうか。いやされるという流行ことばはあまり好きではない。一方的、受身すぎる。自分からの働きかけがないと本質的な解決にはならないだろう。が、流れていく時間の中でどうしようもなくキツい時もあるのだから、、
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様々な思索があって、それがどのようなカタチになっているのか、とても興味深いですね♪
おそらく、カタチを産み出すのではなく、もともとが持っている「素性」を浮かび上がらせるのだろうと推察します。
傑作ポチ☆
2010/12/23(木) 午後 6:08 [ ヒロメール ]
実は、考える前に走り出してしまうタイプでして、思索は後回しになりがちです。
地図が先か後で地図をつくるかを学生の頃党派に偏る相手と何時間も論じたことがあります。
今はずいぶんと歩きまわった後なので、地図をつくれます。
ヒロさんいつも気に留めて下さってありがとうございます。
2010/12/23(木) 午後 7:55 [ contemporary Eat & Art ]