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-『賞と罰』
それは昭和20年8月、国破れて長い戦いの重圧からようやく解き放たれ、虚脱状態からまだ抜けきらない9月4日の未明の出来事であった。
中央線笹子駅構内で乗客死者64名重傷者を含むけが人200名という列車事故にいよる大惨事が発生した。
この時、国鉄甲府管理部の保健係として数日前に転勤してきたばかりであった私は、事故の通報を受け動員され、医師、看護婦たちと救援列車に分乗して現場に向った。
笹子駅についてホームに立った途端ムゥッと異様な臭いが鼻を突く。右往左往飛び交う人々の姿。
向かい側の貨物ホームには、破壊された客車の間から収容された犠牲者の痛いが次々と粗筵の上に運ばれて来る。
怪我人は消防団員の担架に乗せられ、または歩けるものは歩いて駅の直ぐ近くの小学校の講堂へ収容されていく。
平素は乗降客も少なく、静かな山間のこの小さな駅が阿鼻叫喚の坩堝と化していた。
私達は早速 小学校の講堂に運び込まれたけが人の応急手当と身元の確認にあたる。
折から天候が悪化し、やがて盆を返すような大雨となり講堂の中は薄暗く、患者の呻き声と罵声に、事故の責任者という負い目の中、敏捷に黙々と動き回る看護婦の白衣だけが救われる思いであった。
東京を9月3日午後11時発の403号夜行列車は4日午前0時20分ころ、満員の客をのせて笹子駅に差し掛かった。平素この列車は笹子駅を通過するダイヤであったのだが、この日 対向列車の遅延により急遽 臨時停車させるべくポイントは通過線から折り返しの引き込み線に切り替わっていた。
このころ乗務運転士は戦後処理の輸送業務に人で不足の中、連日連夜の強行乗務を強いられていた。通過駅の連続する単調な運行につい睡魔に襲われ、通過信号から折り返し線への場内信号に替わっているのに気付かなかった。
列車は大音響とともに、ストップ標識を突破し車止めの岩盤に激突してしまった。
運悪く一輌目の客車と二輌目の客車は古い木造車で脆く、一輌目の客車の中に二輌目の客車が突っ込んで大惨事となってっしまったのである。
戦争終結に向けて昼夜を問わず一生懸命勤務に励んできた運転士は、過失致死傷害の罪に問われ、司直の手によって裁かれる身にまってしまった。
ところがこの事件をさかのぼること一ヶ月前の終戦真近の8月5にち、彼は日中6両編成の満員列車を運転して中央線の山の中へと差し掛かっていた。
この辺はトンネルの連続で、トンネルを出たかと思うとすぐ次のトンネルへ差し掛かっているといった区間であった。
電車が湯の花イノハナトンネルを出た途端、一機の米軍機が飛来し、電気機関車めがけて襲ってきたのである。
米軍機の機関銃弾が機関車の心臓部をぶち抜き、運転手はノッチを一杯に引いて全速で次トンネルに逃げ込もうとしたが、すでにモーターは停止していた。
それでも惰性で列車の大半は次のトンネルに入ったが、後部二輌を敵機の襲撃の中に曝したまま停止した。そして制動ブレーキの効かなくなった列車はゆっくりと後退し始めた。
このとき件の運転士は、運転助手とともに車外に飛び出し、線路の石を拾い車輪の下に歯止めをしながらトンネルの外に出た。
数を増したグラマンは、トンネルの外に露呈している二輌の客車めがけて容赦なく攻撃してくる。
二人は乗客に、前の車両に避難するよう、銃弾の中命がけで誘導し、多くの乗客の命を救い、職務上とはいえその行動は人命救助の大賞にも値する働きをしていたのである。
この彼が今は獄窓に身を委ねている。一瞬の睡魔がこの人の運命を大きく変えることとなった。まさに賞と罰との逆転劇を身を以て演じてしまったのである。
これより数年後、国鉄機構改革により、甲府管理部は甲府駅を境として三方に分断され、私も国鉄を去ってこの彼の消息はきくよしもない。
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