Sculptor Gon Shinji WORLD

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『美代ちゃん 大正12〜14年頃 3~5才』

 樽屋の玄関の道路に面した六畳間が、橋本工業の娘 美代ちゃんの居室である。
 美代ちゃんは小柄で色白のきれいな女ヒトだった。早くに生母を亡くしているので、ひと月かふた月毎に東京の父親が訪ねてきた。
 病弱なためあまり人とも交わらず静かに一人本を読んでいることが多かった。天気のよい時は障子を開けて、道路向こうの河原の景色を眺めたり、表の砂利山で私たちが遊ぶのを眺めながら静かな笑みを浮かべていた。

 母は私にいつも割烹着のような前掛けを着せていた。茶褐色の地に黒の粗い格子模様のあるフランネルの前掛けであった。袖口にゴムが入っていてその形がいかにも赤ちゃんの涎掛けのようでいやだった。
 遊んでいても窓辺に美代ちゃんの姿が見えると慌てて脱いで樽屋の出来立ての樽の中に隠しておいた。家へ戻る時、着るのを忘れて帰りよく母にしかられたものだ。

 美代ちゃんは、東京の父親からの荷物が届く度、囲炉裏端に居る私たち兄弟の所へ珍しいお菓子等持参してくれた。
 ことにひとつひとつ銀紙に包まれたチョコレートを、兄たちのいない時に私を部屋に呼んで二、三個くれた。私は一度に一個食べてしまうのは惜しくて、真ん中の盛り上がった筋を境に半分食べ、残りを紙に包んで母の元へ持ち帰った。
 美代ちゃんは私のこんな仕草をもいつ笑みを浮かべてみている。

 二年目の秋、父親が迎えにきて、震災後ようやく落ち着いて暮らせるようになった東京へ帰ることになった。
 美代ちゃんの馬車が部落の角を曲がり白い手が見えなくなるまで私も手を振り続けた。美代ちゃんの手が見えなくなると私はたまらず母の前掛けに顔を埋めた。
 学校から帰った兄たちは、留守の間に発ってしまったことを知って、美代ちゃんのいた部屋にぼんやり立ちつくしていた。美代ちゃんの部屋には今朝までと同じように机やスタンドが置かれていたが、それは美代ちゃんから兄たちへのプレゼントだった。
 その年も暮れる頃、身体の弱かった美代ちゃんは東京に戻ってから床に就いていると便りがあった。父は一度様子を見にいかねばと言っていたが、都合がつかずに年を越した。

 翌春、長兄が早稲田大学の工科に入学し、橋本工業の事務所の宿直室にお世話になることになった。父は兄を伴い上京した。事務所で挨拶をした後、社長宅を訪ねるとその時すでに美代ちゃんは病が悪化して、父親に伴われ埼玉の病院に入院してしまっていた。父は急いで病院へ駆けつけたが美代ちゃんは親族や事務所の職員らの見守る中、短い人生に別れを告げた後だった。
 美代ちゃん十九の春だった。

 父が美代ちゃんと別れをしている頃、美代ちゃんがそんな状況にあることなぞ知る由もない私は、樽屋の囲炉裏端で母が夕食の支度をするのを眺めていた。ふと戸の開いたままの裏口から、雨上がりの霧に煙る井戸に目を向けた。跳ね釣瓶井戸である。
 霧の中に上から下までただ真っ白な人像が釣瓶で水を汲み上げているのが目に映った。故知らず背筋の冷たくなるのを感じて「母ちゃん井戸に白い人が水を汲んでる」というと、母は表を眺め「誰もいないじゃないか。おかしな子だねえ」という。私が再び井戸に目を転じると、いつの間にか人影はなくからの釣瓶が宙に浮いたままであった。

 数日して父が帰って来た。母に美代ちゃんの亡くなったことを話し、もう少しここに引き留めておくべきだったと残念がっていた。姉に白い人影を見たことを言うと「馬鹿なことを言うんじゃない。お前夢でも見たんだろう」と本当にしてくれない。然し私はきっと美代ちゃんだと思った。
 私は美代ちゃんが樽屋に居るた時「ここの水は東京の水と違って美味しい」と言って井戸によく水を汲みにきていたことを思いだし、あの白い人影はきっと美代ちゃんが最後の水を汲みにきたんだと後々までそう信じていた。
 それからは夕刻には井戸の方を見ないことにした。

父と母は世帯を持ってすぐ続けて一男一女を設けたが、二人とも幼くして黄泉に送っている。生きていれば美代ちゃんと同じくらいの年だった。今また、若い美しい生命を奪った運命のいたずらに怒りのやり場がなかったようだ。後々まで生きている間に見舞えなかったことを悔やんでいた。

『樽屋の生活 〜お勝さんのこと〜 』

 近くの河原端に樽屋の材料を積んである大きな小屋があって、椹の板がぎっしり積み込まれていた。小屋の端のほうの少し空いているところに、お勝さんが住んでいた。
 お勝さんは、顔が疱瘡の跡で穴だらけ、四十歳近くだというのに老婆のようであった。達者な身体で、他村まで出向いて行って按摩をして生計を立てていたが風体の汚いのと「お勝に揉んでもらうと、伸びた爪で首筋が傷だらけになる」とかであまりお呼びがなかった。
 時には農家を回って物乞いもしたらしい。お勝さんはこれでなかなか気位が高く、他人からものを貰うにも自分で納得したものでないと手を出さない。野菜なども新鮮なものでないと貰うとは言わなかった。

 秋のこと、母が数人の女房たちと漬け物の大根を洗っているところへ、お勝さがきて皆が大根を洗うのを眺めていた。母はお勝さんも漬け物をするだろうと葉のついたままの大根を十本ばかり藁縄で縛って「沢庵にでもしな」と渡そうとすると、「沢庵は漬かってから貰いに来るからこんなにいらん」と言って、縄を解いて中から先の二股になった大根を取り出し「二股大根別れても、お前と私は別れない」と節を付けて歌い出した。母たちは「お勝にあっては負けた」と笑った。次に肌のすべすべしたのを二本手に取ると「肌の悪いのは自分の顔で十分だ」と、また皆を笑わせてそれだけ下げて消えて行った。

 お勝さんは何時も小学生用の古い肩掛け鞄と、布で作った大きな袋を左右の肩から斜め掛けにしていた。鞄には自分の日常の必要品を入れ、布袋には頂き物を入れる。
 部落を廻るお勝さんにはなかなかの実入りがあった。木炭の生産地であるこの辺りの道には、炭俵の荷馬車から一つ二つと落ちた炭が転がっていた。これがかなりあって歩きながら袋に拾い、夕暮れ時、家に着く頃には袋が一杯になる。炭の生産農家にとって堅炭は商売物で、「紙漉きの手洟」ではないが自分のところではなかなか使えない。小枝や下刈りの雑木を集めて火をつけ、燃え切ったと思うころ少量の水を如雨露でかけて、まわりを足で踏みつけて火の消えたところを持ち帰る。踏み炭といってこれを炬燵などの熱源とするのだが、炭になり切らない小枝が混じっていて炬燵布団を捲ろうものなら煙くてたまらない。それにひきかえお勝さんの炬燵は、叩けばチーンと音のする楢の上等炭だから火持ちもよく煙も出ないお大尽暮らしであった。

 お勝さんには死に別れた夫との間に男の子が一人あった。私の一番うえの兄と同級であったが、私達が樽屋に戻った頃は六年生で小学校を辞め上田市の大工に弟子入りをしていてお勝つさんは一人暮しであった。一人息子を他所に出した寂しさからか、子供等の元気で遊んでいる姿を見ると、傍らにしゃがんで楽しげに眺めていた。

 住まいの一隅に石で囲った深い炉をしつらえ、周りに子供達を呼び集め昔話をよくしてくれた。小学校へ行くようになって修身や国語の勉強の中に出てきた物語の幾つかは、すでにお勝さんから聞かされていたものだった。
 樽屋から火の始末についてきつく言われていて、河原の石で四角に積み上げられたその炉は必要以上に深く、土間に座らないと手の届かないところに鍋が掛けてあった。
 お勝さんは時折、菜飯を炊いて私達に振る舞ってくれた。
 母から「お勝さんのところで変なものを食べるんじゃないよ」と言われていたが、この菜飯は結構美味しくて何度かご馳走になった。

 幼くして大工の弟子入りをしていたお勝さんの息子は、長じて腕のいい大工となった。真田幸村で有名な上田城の天守閣の建て替え工事の際、棟梁になったと後に聞いた。

『樽屋の生活 〜母のこと〜 』

 和田村下和田の樽屋は江戸時代から酒樽、醤油樽、味噌樽を作りつづけてきた老舗である。中二階を持った大きな平屋で、表半分樽を作る工場になっていて、私たちは玄関のある方の一部を借りて住んでいた。

 玄関に通じる中庭の、道路に面したところに屋根付きの立派な門が構えてあった。大きな扉が観音開きにとりつけられているが、普段はその横に付けられた小さな通用口から出入りしていた。裏口には広い土間があって板の間に上がるところには、長さ5m、幅が30cmもある一枚板でできた欅の框が据えてある。
 板の間の土間寄りのある大きな囲炉裏の古い自在鍵には大きな鉄瓶が掛けられ、何時も白い湯気が上がっていた。土間の上は吹き抜けで高いところに横長の箱が取り付けてある。これは鶏のねぐらで夕暮れ近くなると裏の畑で遊んでいた茶褐色の二、三十羽が次々と入り口の敷居を飛び越えて土間に入り、此の箱めがけて飛び上がる。なかなか上がれずに端に掛かっている梯子をピョンピョン上がっていくものもある。囲炉裏の裏の部屋と隣りの三部屋が私たち家族の住居になっていた。

 その頃父は、和田村と大門村の間の中山の隧道工事を一部請け負っていた。父たちのほかにも幾つかの飯場があって、時折物騒な事件も起きていた。

 ある夜のこと兄たちが床に就いた後、暗いランプを灯して母と風呂に入った許りの時である。外でばたばたと人の足音がしたかと思ったら、湯気抜き窓の細い隙き間に髪を乱した男の顔が覗いた。「ねいさんだね。すまんがわしを匿ってくれ」と言うなり足音は風呂場から離れ家の方へ消えていった。
 母は「お前はゆっくり入ってな」というと体も拭かずに着物を着ると男の後を追った。私も慌てて風呂から上がり、暗い裏庭を飛び石伝いに勝手口から入ると、母がさっきの男の右手に包帯を巻いていた。うちでは隧道の現場でよく怪我をするものがあって、応急手当はいつも父や母がやっていた。包帯や脱脂綿や副木まで用意されていた。傍らの洗面器には真っ赤な血で染まった脱脂綿やガーゼが入っていた。母は提灯に火をつけて囲炉裏の灰を十能にいっぱい掬い上げ外に出て行った。直に戻ったと思ったら、玄関の戸を手荒く叩く者がいる。待っていたように立ち上がると母は戸を開け外の人々と喋っていたがやがて静かになった。
 男は血の滲んだ包帯の手を胸の上に置いて仰向けに横たわり微かに唸っていたが、母が戻ると「ねいさんすまん、大将の留守に」と言う。母は「今夜は一番痛むかもしれないが明日になれば笹井さんを呼んでやるから我慢しな」と男の額に濡れ手拭いをのせてやった。「章、お前はもう寝な」と言われて私は床に入った。

 翌朝目が覚めると、兄達は何も知らずにねていたらしく、もう学校へ行った後だった。
 お膳の前には昨夜の男が座っていて包帯をした右手を首から吊って左手で朝飯を食べている。傍らで咋夜遅く帰ってきたらしい父がいろいろ尋ねている。ふと気づくと男の左手には私専用の大事なフォークが握られていた。

 母から後で聞いたことによると、その男はある坑夫の班の班長で飯場頭が賃金をなかなか払ってくれないので催促に行ったらしい。
 飯場頭は「金は長いのが好きか、短いのが好きか」という。どうも払う気がないとみて喧嘩腰に「長いのでも短いのでもいいからすぐ払え」と大声を上げた。
 飯場頭に「そんなら手を出せや」といわれて手を出すと、やにわに隠し持っていた匕首で、差し出した男の手を畳まで通るほど突き刺してしまった。
 「殺される!」と思った男は、とっさに尽き立ったままの匕首から手を引いた。中指と薬指の間が切り離され、匕首を畳に残したまま飛び出して逃げてきたというのである。

 母が灰を持って出て行ったのは、門から勝手口の間の、血の滴りを隠すためであったらしい。
 その直後やってきた追っ手の男達にには「金井の家と知ってやってきたのか」と一喝して引き上げさせたのである。男達は逃げ込んだことは分かっていたようだがそれ以上追求しなかったらしい。

 母は無口で穏やかな人であったが、こうした修羅場でも慌てずに平然と対処できる度胸にある女性であった。

『関東大震災 [3〜4才} 』 金井 章 1920(大正9)〜2010(平成22)

 母に抱かれて表の道路に飛び出した。
 道路端の細い電柱が左右に大きく揺れ、二本の電線が波を打っている。母に続いて「こりゃすごい地震だ!」と叫びながら男たちが裸足で飛び出して来る。
 大正12年9月1日 関東大震災発生。帝都は一瞬にして廃墟と化す。私が三歳の時のことである。
 母の胸から揺れている宿舎を振り返ると、一人だけ昼食の食器が散乱する飯台の前に蹲踞の姿勢で陣取ったままの男がいる。続いてきた余震に堪えバランスを取りながら飯を掻き込んでいる。田中明三十だ。
 私と二十五才も離れた従兄弟である。ずうっと父の仕事を手伝っているベテランの隧道坑夫で、明治三十年にうまれたから「明三十 めさじゅう」と名付けられたという。

 この頃 父は十余人の坑夫を連れて大門村の扉山というところの隧道工事についていた。宿舎は以前 伝染病患者の隔離病舎として使われていたところで、渡り廊下で幾棟もの古い病舎が繋がっていた。
 二人の兄と姉は、隣村和田の樽屋にあずけられ、和田小学校に通っていた。私だけが父母に連れられてここにきていたのである。何時も彼方此方の現場を転々と、両親と共に移動していたので様々な事件に出くわすことになる。

 長い間使われなかった避病舎の建物は荒れ放題だ。恐いもの見たさで、ある時ここを探検したことがある。
 管理棟と病舎に繋がっている埃だらけの渡り廊下に足跡をつけながら、おっかなびっくり一番手前の病棟の、何時から閉まったままか分からぬ埃まみれのドアノブを回した。中には長い廊下が続き、端に大きな黒い鍋がいくつか転がっている。あとで母に聞くと患者の便を消毒した鍋だと教えられた。
 入ってすぐの天井には、古く色褪せた竹製のお駕篭が二つが釣り下げられている。罹病患者を運ぶのに使われたと思われる。ひとつのお駕篭の横から毛布のような布端がぶら下がっている 曇った小さなガラス窓からの鈍い光の中に静まり返っている光景は、子供心にも凄まじく思えた。踏み入る勇気は最早なく、母の元に戻ろうと思った。
 その時である、駕篭を吊ってある片方の紐が突然切れて、もう一つの駕篭に打ち当たった。一本の紐で宙吊りになった駕篭から埃がぱあっと降りかかってきた。あまりの怖さに母を呼ぼうとしたが声にならない。咄嗟に踵を返して母のいる炊事場に向って走った。長い間眠っていた空間に風を入れたために耐えきれず綱が切れたのだろうが 期待通りの?怖い結末であった。

 父は震災の四日後、古い付き合いの巣鴨の橋本工業の安否を気遣い、信越線の夜行列車で東京に向った。四、五日して戻ると早速 東京の惨状を語ってくれた。そして橋本工業社長の病身の長女を預かってきたので兄たちのいる樽屋へ置いてもらうことにしてきたという。(この娘さんは美代ちゃんという。十八才になるなかなかの器量良の女性でその後の私の思いでの中に度々登場することになる。)

 翌年の四月初め、扉山の現場を明三十さんに任せ、五人の坑夫と母と私を伴って満員の夜行列車で大家の駅から東京に向った。東京の復旧工事に携わる橋本工業を手伝うためである。
 列車が上野駅に着いたのは漸く夜が明け始めたところで、春といっても朝は結構寒い。上野公園の西郷さんの銅像のところで、全員が背負えるだけ背負ってきた食料や衣類を降ろして迎えの来るのを待つ。
 母の羽織の中に入って寒さを凌いでいると、折よく女の人が篭に入れたゆで卵を売りにきた。母は早速買い求め,皆に一個宛手渡して残った二個の殻を剥くと、私を銅像の回りの大鎖に掛けさせ一つ渡して、もう一つを父に差し出した。父は首を横に振ると、腰に差していた胴乱から煙管を抜いて煙草に火をつけうまそうに吸い込むと、明けたばかりの空に向って大きく煙を吐いた。

 父たちが救援工事に着工し二日程して、何処へ行くためだったか母は私を背負って隅田川の船着き場から小さな屋形船に乗った。乗船の際、舳先の方から母は頭を下げて中に入ろうとした。私の頭は母のそれより上にあったので、入り口の板にしたたか額を打ちつけてしまった。痛い痛いと騒いだので、母は慌てて私を背中から降ろして、おでこに何度も何度も唾をつけてさすってくれた。実際には音がしただけで騒ぎの程に痛くはなかった。船から見る隅田川の両岸には、焼けて黒くこげた木材の屑が、川幅が狭く感じるほどど流れ着いていた。

 母と私はそれから四日程して、今度は昼間の汽車で東京を後にする。列車が薄氷峠にかかると目で見て分かる程前方上がりに車体がかしぐ、アプト式の歯車がガチガチとレールに食い込む音が躯に響く、夏蜜柑を通路においてみると ころころと後部へ転がっていってしまった。後ろの席に乗っていた黒い服の学生さんが持ってきてくれた。母は私が好奇心からわざとしたのを知っていたので、きまり悪げに「どうもありがとう」といって頭をさげた。
 父たちは震災より一年経った九月末に五人の坑夫と共に元気で帰って来た。

 その翌年の春、扉山の工事も一段落したので兄たちのいる樽屋へ引き上げることになる。私たちが引き上げたあと、避病院は取り壊されてすぐ南側にあった小学校の農園に変身した。

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